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環境芸術って何?

博士論文のボツ原稿から,(本論文280ページですが,ボツ原稿は軽く1000枚はいっています。一枚1600字で),みなさんの何か参考になりそうな,文の紹介をしていきます。
本原稿は,まだ,博論テストが終わっていないので,それが終わってから少しずつ紹介しますね。

まずは,環境芸術について・・・。序論です。

1 持続可能な社会と環境芸術
 環境芸術学会の初代会長の伊藤隆道は環境芸術について「『環境芸術』とは?という質問に対して明解な答えは用意されていない。それは,この言葉に含まれるイメージが極めて多様で幅広く,人それぞれが,独自の異なった解釈や理論で実践と結びつけているからである」4)と答えている。確かに,環境芸術は,対象とする環境も多様であり,その環境への関わる意図や表現手法も多様である。それゆえ,これが環境芸術であると一言で表現することは難しい。
 しかしながら,各地のアート・トリエンナーレやビエンナーレ,さらには国民芸術祭において,農漁村から都市まで拡がる環境に能動的に働きかけた環境芸術が数多く制作されている現状からは,居住地域の持続可能性を高めるため,環境芸術への市民や芸術家及び行政からの期待は大きいと思われる。
本項は,持続可能な社会の構築において期待される環境芸術の社会的役割について論究する。そこでは,まず,環境芸術の定義を整理する。

(1)環境芸術とは
①環境芸術を問い直す
 環境芸術を関する2つの解説がある。これらは,同じ芸術活動を説明しながら,環境と芸術と関係性の解釈の違いから,その方向性を異にしている。この両者の違いに着目することで,本論における環境芸術を成立させる条件を見いだし,その概念を整理したい。
 一つは1993年発行「現代芸術事典」における南嶌宏の以下の解説である。
「『環境芸術』として限定する場合,-略-モダニズムを限定させてきた,便宜的に仕組まれてきた美術館や画廊といった因習的な美術の場や画廊といった因習的な美術の場や,そこから限定される個々の根拠なき作品の形態やサイズを,人間が本来対峙すべき神や自然といったフィールドへと放ち,人間に内在する表現の可能性をもくろむ作品あるいは行為をさす」。
 さらに,南は,環境芸術を成立させる条件を以下のように述べている。
「必然的に環境芸術は,設置される場との関係において,その作品巨大化する傾向にあるが,その実際的なスケールは本質的でなく,あくまでそのコンセプトの次元において精査されなければならず,いわゆるインスタレーションは環境芸術とはいえない」。
 南は,環境芸術が制作されたその背景にあるコンセプトを重視している。これは,ランドアートを生んだ1960年代のアメリカが,ベトナム戦争の泥沼化や環境問題の顕在化,人種や女性問題に対する市民運動の激化等の不安定な社会情勢への反発と厭世的な危機感を抱えていたことに,コンセプト(概念,全体をつらぬく視点・考え方)という形で芸術に社会との関係性を示すことが求められていたからと思われる。よって,屋内・野外を問わず,展示される場所にあわせて空間を組織し,展示期間が終われば解体されることを前提とする「1回性」を基盤とした立体に作品をさすインスタレーションを,南は,コンセプトが背景になければ環境芸術の範疇に入らないとしている。
 また,南は「国際的な環境破壊に対し,1992年,リオデジャネイロで開催された『第1回エコアート展』などのように,自然保護を訴えるキャンペーンとしての一連の動きも環境芸術と一線を画すべきである」としている。これは,芸術活動が政治活動や社会運動のツールになる,すなわち,副次的存在になることを危惧しているからと思われる。
 以上の南嶌宏の解説から環境芸術を成立させる要素をまとめると以下のようになる。
  ○環境に関係する作品,あるいは行為。
 ○作品を,自然等のフィールドへと放つ。
  ○設置される場所との関係において,そのコンセプトを重視。
  ○芸術作品・活動を政治・社会運動のツール化として利用しない。
 2つ目は,2002年発行,『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』における暮沢剛巳による以下の解説である。
「室内外を問わず観客を取り巻く環境そのものを作品と見立てた芸術の総称。現代美術のコンテクストでは,50年代のグループ・ゼロの作品などにその先駆をうかがう場合もあるが,アラン・カプローを始祖とみなす場合が一般的」。
「観客を取り巻く環境を作品と見立てる」としているように,暮沢は観客と環境との関係性を重視し,その環境を作品または行為に見立てることを環境芸術成立の基盤と見なしている。確かに始祖とされるアラン・カプローは,環境の定義を「見る者を取り囲み,光,音,色彩を含んだあらゆる素材からなる空間全体を満たす形式」と述べ,見る者を身体的に包み込み,あるいは見る者が,その中に参与できる空間,つまり環境の設定を作品制作の主眼としていたとされる。そのため彼は,様々な視覚的手段が駆使したり,観客の参加を作品の契機として積極的に取り入れた。さらに,彼は,観客を包み込んだり,参与ができる空間=環境を創り出す理由を以下のように語っている。
「全てのものは平等であり,もはや芸術については何にも重要なものは存在しない。道路のゴミ,交通のライトなどがあるだけだ。しかし,それらを凝視してみよう。たとえば明らかに芸術的な才能などを持ち合わせていない人々を注目するだけでいい。そうしたおびただしい数のもの全てが,いやそれ以上の多くのものが,驚くべきものとなりうるのだ。それは事実だ。われわれは,おそらくこのように価値を発見していくのだろう・私が興味をもつのはこうしてできる限り可能性を拡げていくことである」。
 彼の活動の目的は「生活と芸術の統合」と言われている。これは,一般人や観客を巻き込み、街中に突如大量のゴミや異物を出現させる「ハプニング」を通して、芸術と日常生活の分離状態を破り、芸術家と観客の間の境界線や、演じる者と見る者の間の区別をあいまいにしてしまうことを狙っていたとされる。彼の芸術と日常生活の分離状態を破る考え方は,アース・ワークの作家達が,サイト・スペシフィック(場所の特殊性)を重視し,作品と作品が置かれた場所の両者を不可分となものと捉えていた思考と通じるものがあり,以後の環境芸術のみならずフルクサスやパフォーマンスに与えた影響の大きさも頷ける。また,日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の各地で地域環境の価値を再認識させとする参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分がある。
 暮沢は,1959年に行った展覧会「6つのパートからなる18のハプニングス」において行った細かく仕切られた部屋で個別に違う出来事を演出し,観客に対してその出来事間の相互関係を考えさせるハプニングを例に,アラン・カプローが環境芸術をハプニング,すなわち様々な出来事の組み合わせと考えていたとする。
 この環境芸術の捉え方は,ホワイトキューブの美術館から自然環境を生かした芸術活動を想定する南の解説とは異なっている。さらに,暮沢は南の環境芸術の解釈とは異なる以下のような解説を加えている。
「カプローの解釈を緩く捉えるなら,インスタレーション全般を環境芸術として考えることもできるだろう。-略-アースワークと呼ばれる彼らの作品は,砂漠,湖沼,荒地などの自然を制作素材に見立てたものだが,大規模な工事を伴い,また肝心の作品を現地で見られないなどの難点があり,環境という言葉そのものとは親和性が高い反面,『観客を取り巻く環境を作品に見立てる』という環境芸術の意図に即した表現であるかどうかは,疑問の余地が残る」。
アラン・カプローが,ハプニングにおいて演者と観客の関係のみならず、演者の身体を取り巻く場所や空間などの「環境」を意識していたように,観客に身近な環境との関係性を意識させるインスタレーションは環境芸術と見なすこともできる。しかしながら,全てのインスタレーションを環境芸術とすることは、西洋の童話を日本の城の敷地に置くような場との関係性を無視した ようなパブリック・アートも環境芸術に加わることになる。そうなれば,教材として,鑑賞対象をどのような基準で選択すればよいか困ってしまう。インスタレーション=環境芸術という考え方は,環境芸術を広く捉えすぎのように思える。ただ,アラン・カプローの芸術活動を環境芸術の始祖として,環境芸術の成立要素に取り入れている以下の条件は,地域の環境を生かした芸術活動に市民の参画を意図している本論にとって重要なものと考える。
  ○観客を取り巻く環境を作品と見立てる。
 暮沢は,この視点からアースワークが環境芸術の意図に即しているかどうか疑問を投げかけている。また,「エコロジーの機運が台頭した1980年代には今度は環境芸術を都市環境のコンテクストで考えようとする傾向が生まれてきた。もっとも,そうした発想から生まれてきた仕事の多くはランドスケープ・デザインという側面が強いのでこれを純粋に美術のコンテクストで扱えるかどうか疑わしい」と都市の環境に関わる作品も,暮沢は環境芸術の範疇に入れて良いのか疑っている。確かに,人里離れた自然環境を破壊して作れた作品や都市において施工主の意図に従い,都市の表層的な景観の調整と見栄え・使い勝手という付加価値を重視した作品・建築物の全てを,周囲の環境と,コンセプトを持って関わってるので環境芸術とするならば,環境芸術の概念はさらに拡散する。しかし,その定義は市民にとって難解になり,それゆえ様々な曲解を生み,環境との作品の接点を見いだす評価基準を他者と共有することが,より一層,難しくなると思われる。
 エコロジーや社会の持続可能性と芸術との関係性が問われる今日,環境芸術が「よく分からないもの」,「環境と関われば何でも有りの芸術活動」とされ,その意味や価値が拡散し曖昧なまま,道具として使われるのであれば,芸術にとっても不幸であるし,それを行った作家,参画した市民,生徒にとっても活動への価値が見いだせず,ただの単発のイベントで終わってしまうと思われる。
 そこで,この南や暮沢の解説を手がかりに,環境芸術の現代社会における位置づけを捉え直す必要があると思われる。そのために,ランド・アートの作家達を中心に1960年代から2000年代に行われてきた環境に能動的に関わる芸術活動が,どういった作為(コンセプト)や手法によって成り立っていたのか整理することで,持続可能性な社会における環境芸術の意義を見いだしたい。
by kazukunfamily | 2010-01-16 21:02 | 博士をめざす方へ

子どもとアートとict教育の関わりを生かした図画工作科教育の実践的研究


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