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環境芸術,萌芽期

とりあえず,環境芸術関係はここまでです。
あとは,博論の審査が終わって,何か皆さんに見ていただける形にしたいとおもっています。

①環境芸術の発生と変遷
環境芸術の定義とそのねらいを見いだし,整理するするために,まず,環境芸術がいつごろ発生し,現代社会の様相に伴ってどのように,その制作場所,場の関係,制作方法等を変遷させていったのか年代順に追ってみたい。
 その発生年代としては,ジェイムズ・ワインズが「1970年代には今世紀で最もとっぴで実験的な多くの屋外芸術作品がつくられた。環境芸術運動には,それまでの芸術には見られなかったほど多様な解決や典拠やメディアが関係し,また視野がひろがった」5)と述べている1970年代を想定したい。そして,1960年代までを萌芽期,1970年代以降を展開期とし,以後は10年区切りで,その年代の環境芸術の動向を整理していく。
ア,萌芽期(~1960年代)
風景すなわち人々を取り巻く環境は、古代から現代の抽象表現まで芸術家に多様な主題を提供し、無数の解釈や表現法を引き出してきた。そして、1960年代以降の芸術家と風景の関係について岡林洋は「ここ数十年来,特に芸術家は,風景と-いや環境といった方がよいのかもしれないが-さらに多様な手段を通じてかかわりをもつようになってきている。もはや風景は,他の背景として用いられない。かれらはまた,風景を描くのではなく,環境に参加しようとしているのである」6)と,芸術家は描くのではなく,環境に参加することで作品をつくりだしており,環境との抜き差しならない関係が増大していると述べている。では,芸術家が環境に参加するように制作を始めたのはいつ頃であろうか。 
この環境芸術の萌芽に関わる考え方にはいくつかの異なるものがあると思われる。本論においては,2つの例を紹介する。
A ランド・アート(アース・ワーク)に関連して
 1例目は,環境芸術という用語から,ローバー・スミッソン,「渦巻き状の突堤(1970年)」やマイケル・ハイザー,「ダブル・ネガティブ(1969年)」等のランド・アート(別称,アース・ワーク)におけるモニュメンタルな土砂の移動を連想するというものである。この環境芸術とランド・アートの関連について,1993年発行「現代芸術事典」において南嶌宏は以下のように説明している。
「『環境芸術』として限定する場合,-略-モダニズムを限定させてきた,便宜的に仕組まれてきた美術館や画廊といった因習的な美術の場や画廊といった因習的な美術の場や,そこから限定される個々の根拠なき作品の形態やサイズを,人間が本来対峙すべき神や自然といったフィールドへと放ち,人間に内在する表現の可能性をもくろむ作品あるいは行為をさす」7)。
 南は環境芸術の作家として,ロバート・スミッソン,ワルター・デ・マリア,クリスト,リチャード・ロングを挙げている。ここで語られている環境芸術は,1960年代後半以降に,美術館・ギャラリーを出て,作品の新たな「場所」を発見し,大地,海などの自然・野外空間に展開されていったランド・アート(アース・ワーク)と考えられる8)。
ストーンヘンジやナスカの地上絵,さらにピラミッドなどは太古のランド・アートといえるものであるが、現代的な意味におけるランド・アートを構想した最初期の作家としてはイサム・ノグチが挙げられる。
 彼はすでに1933年の段階で、古墳や古代遺跡、日本庭園などから着想を得て、巨大なアースワークを設計して いた。1947には「Sculpture to Be」・・・という作品を発案している。しかし,実際には実現せずニューヨークに模型(1947年)が残されている。この作品では,盛り土で巨大な「顔」を描くというもので鼻の長さだけで1.6kmになる予定だった。これが実現していればノグチは、おそらく最初のランド・アート制作者になっていたと思われる。
 このノグチの巨大な作品は,その作品に宇宙から見ると文明生活を営む生物がかって地球に生存していた痕跡と示すはずだった。それは,現代文明のもろさ,はかなさとともに,第2次世界大戦中,日系アメリカ人として疎外されたことや,原子力兵器の開発への反発等からくる地球の未来に対する悲観的見方が背後に存在すると言われている。ノグチのように,ランド・アートに関わる作家達は,何かしら現代社会や地球環境,さらには当時の芸術界に対する不満や危機感,さらには願い(希望)を背景に,多様なアプローチで自然(大地)に働きかけて制作していたと思われる。
 このランド・アートは1960年代後半のアメリカの彫刻家たちによって、一つの美術動向、として短期間のうちに確立されたとされているが,最初に自然環境の中での作品が作られた先例について,ジフリ-・カストナーは「1955年にはハーバート・ベイヤーがコロラド州アスペンに『Earth Mound』を作っていた-略-デ・マリアは1961年にはすでに,都市の空い たスペースを活性化させるために,芸術作品を活用することを示唆していた」12)と1960年を前後に環境の中に入って行う作業計画や活動の萌芽が生まれ,1960年代を通じて,その表現方法が一つにまとまっていったとしている。カストナーが先例として紹介しているバウハウスで教鞭を執ったこともあるハーバート・ベイヤーの1955年作品「アース・マウンド」については,藤枝晃雄も「彼の仕事がランドスケープ・アーキテクチュアに属しているには明らかである。-略- 彼の仕事は積極的外部環境の形成としてのデザインであるといえる。それは『選ばれた自然』が精神性と結びついていくというより『与えられた自然』を造形化するものである」13)とランド・アートとの結びつきを指摘している。事実,1968年の最初の「アースワーク展」に彼のこの作品の写真が展示されている。このことから,彼の作品は,若い芸術家の励みになってたと思われる。
 与えられた自然を造形化する試みは,1967年にマイケル・ハイザーが疾走する車から飛ばされた土,風にまかれた顔料,モータサイクルを走らせ大地に溝を刻む活動を展開していた。そして,彼は1968年にデ・マリアがカルフォルニア州の砂漠において,チョークで1マイルの線を2本引く「Mile Long Drawing」を手がけた時は,その作業に加わっている。 同様にマイケル・ハイザーが同年にネバダ州の砂漠で制作した「Nine Nevada Depression(ネバダ,9つの穴)」では,ローバト・スミッソンとその妻ナンシーホルトが制作に加わってる。このように萌芽期のアメリカのアースワークでは,後の主要な作品を生み出す面々が,西部の砂漠において協力し合って制作活動を行い,その風景自体を素材として操作する芸術活動のあり方を交流,深化させていったと思われる。
彼らが仲間と共に砂漠の大地で試んでいたアースワークの流れを加速させたのは,1968年、ニューヨークのドゥワン・ギャラリー (Dwan Gallery) で開かれたグループ展 "Earthworks"と言われている。14人の作家で構成されたこの展覧会には,アメリカ人とともに,イギリスやオランダの作家達の作品も展示され,ランド・アートがヨーロッパにもグロバールな形等で展開されつつあったことを示している。
  この展覧会では,その多くが大きすぎ,すでに風化で消えたと思われる作品もあり,本体というより写真すなわち数多くのドキュメント15)が展示されていた。これは,画廊における展示販売という従来の慣行に異を唱え,作品が商品化され,人手に渡ることを拒絶する姿勢を示し,当時の消費主義に溺れた美術界を批判していた。
 また,これらの作品はイサム・ノグチがそうであったように,アメリカの環境の現状と未来に関して痛烈な悲観的メッセージを送っていたと思われる16)。この悲観的メッセージの背景についてブライアン・
ウォリスは以下のように当時の芸術家と政治活動や保護運動との関連を指摘する。
「この見方(悲観的)は,当時の政治的風潮と軌を一つにしている。当時は環境保護運動が急速に進み,政治活動,とりわけベトナム戦争反対への参加は,アーティストたちにとって事実上義務と目されていた。従来の意味においては何ら政治色は持たないものの,『Earthworks』展はアトリエや画廊といった空間的束縛からアートの概念を開放する意図を示した点において明らかに反体制だった。-略-この展示に参加したアーティストたちは,ぎこちないながらも,環境保護運動の先駆者達と手を組んで大地,そして,人と大 地との関係に目を向かせた」。
 ベトナム戦争への反戦運動,ブラック・パワーあるいはスチューデント・パワーに象徴される1960年代。従来の価値観が瓦解し,芸術家達も学生,市民,政治運動家達と同様に,社会状況そのものへの鋭い問題意識を持っていたと思われる。そして,それが当時の美術界に対しても鋭い問題意識となり,1950年代からのネオ・ダダ以降の従来の芸術の枠組みから脱出が最大限に進展していった結果,1960年代にはのオフ・ミュージアムの動向が都市で起こり,その後,制作の場が都市から砂漠等の自然環境へと拡散していった。そして,その場の持つ特殊性(資質,歴史,環境保全状況等)に沿うように作品を生成させるという手法で環境芸術が萌芽していったと考えられる。
 この制作の場を都市から自然環境へ芸術家を向かわせたものに,都市の環境における活動することの激しい消耗感,いわゆる疎外感があった。この件に関してロバート・スミッソンは以下のように述べている。
「われわれは,都市には大地がないような錯覚をいだく。それにまた,ニューヨークの美術界の枯渇し,消耗した雰囲気は,アース・ワーカー達を,もっと新鮮で根源的な状況の探究に駆り立てる」。
 こうした,芸術家達のエレクトロニクスの支配する人工環境である都市での生活や芸術活動の閉塞感・疎外感からの開放及び自然環境への渇望が,大地=地球という自然環境そのものを芸術作品にする環境芸術へと帰結したと思われる。
B ハプニング(ボディ・アート,パフォーマンス・アート)に関連して
 2つ目は,1959年にニューヨークのルーベン美術館で展覧会「6つのパートからなる18のハプニングス」において行った細かく仕切られた部屋で個別に違う出来事を演出し,観客に対してその出来事間の相互関係を考えさせる「ハプニング」を行ったアラン・カプローを環境芸術の始祖とするものである。それは,人体とそれを取り囲む環境を取り込んだ美術行為に見いだされた「環境ということ,つまり工業生産品やその廃品までも含むわれわれの環境と,そこに流れる行為と時間そのものが芸術である」21)という環境芸術化(現実と芸術の一体化)の方針を環境芸術の始まりと見る考え方である。2002年発行,『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』において,暮沢剛巳による以下のように環境芸術の解説の中で,アラン・カプローとの関係を述べている。 「室内外を問わず観客を取り巻く環境そのものを作品と見立てた芸術の総称。現代美術のコンテクストでは,50年代のグループ・ゼロの作品などにその先駆をうかがう場合もあるが,アラン・カプローを始祖とみなす場合が一般的」。
暮沢は,「観客を取り巻く環境を作品と見立てる」としているように観客と環境との関係性を重視し,環境そのものを作品または行為に見立てることを環境芸術成立の基盤としている。確かにアラン・カプローは,環境の定義を「見る者を取り囲み,光,音,色彩を含んだあらゆる素材からなる空間全体を満たす形式」24)と述べ,見る者を身体的に包み込み,あるいは見る者が,その中に参与できる空間,つまり環境の設定を作品制作の主眼としていた。そのため彼は,様々な視覚的手段が駆使したり,観客の参加を作品の契機として積極的に取り入れた。
 さらに,彼は,観客を包み込んだり,参与ができる空間=環境を創り出す理由を以下のように語っている。
「全てのものは平等であり,もはや芸術については何にも重要なものは存在しない。道路のゴミ,交通のライトなどがあるだけだ。しかし,それらを凝視してみよう。たとえば明らかに芸術的な才能などを持ち合わせていない人々を注目するだけでいい。そうしたおびただしい数のもの全てが,いやそれ以上の多くのものが,驚くべきものとなりうるのだ。それは事実だ。われわれは,おそらくこのように価値を発見していくのだろう・私が興味をもつのはこうしてできる限り可能性を拡げていくことである」。
 彼の日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の各地で地域環境の価値を再認識させようとする市民参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分があると思われる。さらに,彼は,芸術の可能性を拡げるために環境芸術化(現実と芸術の一体化)を図っていた。それは,単に建物に囲まれたスペースに大量の廃タイヤを詰め込み,足元の悪い空間を前進しなさいという意地の悪い観衆への指示からのみで構成される1961年の「Yard(中庭の環境)」(写真8)からも読み取れる。すなわち,彼は,街中に突如大量のゴミや異物を出現させ,一般人や観客を巻き込む「ハプニング」を通して、芸術と日常生活の分離状態を破り、芸術家と観客の間の境界線や、演じる者と見る者の間の区別をあいまいにしてしまい,廃物・観客・行為・時間という現実=環境そのものを芸術化しようとしていた。
  彼の芸術と日常生活や人々を巻き込み,作品の本質的な要にしようとする環境芸術化の考え方は,アース・ワークの作家達が,サイト・スペシフィック(場所の特殊性)を重視し,作品と作品が置かれた場所の両者を不可分となものと捉えていた思考と通じるものがあり,以後の環境芸術のみならずフルクサスやパフォーマンスに与えた影響の大きさも頷ける。また,日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,普段に何気なく接しいた環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の市民に地域環境の価値を再認識させる市民参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分がある。
 彼の作りだした環境芸術化の流れは,オプティカル・アート,サイデリック・アート,等に受け継がれた。
by kazukunfamily | 2010-01-21 20:47 | 博士をめざす方へ

子どもとアートとict教育の関わりを生かした図画工作科教育の実践的研究


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