「認識論の観点から捉えた芸術的経験の特質について」

久しぶりに,本気の論を載せます。何かの参考に。

1,経験による認識から生み出させる「芸術の世界」と「科学の世界」
人間は,外的な世界との関わりの中で自らの生命を保持し生活を築いている。この外的世界は,自然・社会・文化に分けられる。人間はこれらの自然・社会・文化との相互作用によって,多くの情報を得て蓄積している。この外的世界との相互作用によって対象のイメージや観念を得て,意識が形成される。ジョン・デューイが,「経験は,有機体と環境との間のこの相互作用の結果であり,印であり,報酬である」1)としているように外的世界との相互作用は「経験」といえる。そして,人間はその「経験」の意味に気づき,それを記述したり,表現したりする。その記述する場合が「科学の世界」であり,表現する場合が「芸術の世界」である。
2 「芸術の世界」と「科学の世界」の違い
(1)「科学の世界」の科学的認識方法とは
  「科学」は外的世界の自然や社会,文化を認識対象とし,それに働きかけ経験とし,その変化を分析し記述し,そこに法則性や規則性や理論性を発見する。そして,その結果,我々は,外的世界についての知識や概念を得る。
例えば,対象がホタルだとすると,その発生や幼虫の時の餌,雄と雌の発光器の違い,さらには,ゲンジホタルと平家ホタルの発生場所の分布などが,その分析対象と  なる。
以上のように,科学の世界を形成する科学的認識によって,対象が自然や社会や文化となり,それの分析と記述によって「法則性」「規則性」「理論性」を発見し,知  識や概念を得る。
(2)「芸術の世界」と芸術的認識方法とは
「芸術」は,「科学的認識」では捉えきれないものを対象とする。すなわち,人間の心の世界である。すなわち,人間の感情・情緒・生命なのである。例えば,ホタルでいえば,その光の持つ幻想的さを美しいと感じる心である。このような実際の現象を体験し生まれた感情等を「内的世界」いう。いうなれば科学や言語概念では捉えれない「内的世界」を直感という感性の力によって捉える。そして,音や色彩,身体の動きで表現する芸術的体験で行われている認識が芸術的認識である。すなわち,人間の感情等の「内的経験」を音や色彩等で誰もが知覚できるように表現するのが「芸術の  世界」といえる。
3 能力における「芸術的体験」と「科学的体験」との関わり
(1)科学の知
自然・社会・文化を科学的に認識するときには,主に知性・理性・概念・論理といった「科学の知」が中心をしめ働いている。この科学の知の特性は,普遍性・客観性・論理性にある。その背景には,ものの世界はすべて数量に還元させるという考えがある。
(2)芸術の知
内的経験を芸術的に認識する時は,感性・イメージ・直感・感情といった「芸術の知」が働いている。この芸術の知の特性は,個別性・主観性・非論理性にあり,そして,この能力は,数量では捉えられない「ものの質」を扱い,質を捉えることがで  きる。
(3)双方の認識に関わる経験が影響しあう
この芸術の知と科学の知は,自然・社会・文化の外的世界について私たちの「経験」言語等で表現する場合や「内的世界」を音や色彩で表現する場合に双方において働いている。そして,科学的認識が行われる科学的経験においても,芸術的認識が行われる芸術的認識においても「科学の知」と「芸術の知」の双方の能力が働いている。
ただ,科学的認識は,認識の方法の中心が経験を表現するのが「ことば」や「記号」であり,言葉や記号で思考している。科学的認識の結論は,薬品の化学式のようにそ  れだけで意味をなし,科学的経験そのものが次の資産になっていく。よって,科学的経験の中で行われる認識に関わる知識は,塁加算的に増えていく。一方,芸術的認識は,認識方法の中心が音や色彩や身体といったものが媒体で内的経験を表現すること  であり,表現媒体そのものが感情をともなった物質であり,これによって思考している。芸術的認識の結論は,画家の思考や技法が,他者の創造行為にとってその美的経験の情報は工夫の対象となるだけであり,それだけで人々の共通の資産となるのみではなく,次の人は,先人の芸術的経験を自らの創造にとってふさわしい技法等に学び直さねばならない。
しかし,人間のあらゆる認識が伴う経験は,「科学の知」と「芸術の知」双方の能力が常に働いている,よって,科学的認識においても芸術的認識においても,経験や知識を結合させたり変化させたり分離させたりして新しいものを生み出す創造的思考が行われており,それ故「芸術の知」が重要な働きをしている。
3 軽視された芸術的経験=「芸術の知」
デューイは,芸術について「芸術は,経験に浸透する性質である。経験は,ただ比喩的な表現としてでなければ,経験そのものとは言えない。美的経験は,常に美的なもの以上なものである」2)と芸術的経験の重要性を指摘している。しかし,今回の学習指導要領改訂に際して,中央教育審議会で中学校での美術教育の存続が審議されたり,小学校の図画工作の時数削減が話題になっている現在,美術教育ひいては芸術的体験,そして「芸術の知」は決して重視されているとはいえない。その背景として,現代社会の「科学の知」に対する偏重がある。すなわち,科学主義思想が背景にあるのである。近代,「物質」と「精神」とを分離し2元論的に捉え,前者の物質だけを科学の対象にした。つまり物質は「延長されるもの」で精神は「思惟するもの」と捉え,延長されるものだけを科学は対象とした。ゆえに,合理性と客観性を重視した結果,「思惟するもの」としての感情・情緒といった能力は,移ろいやすくしかも主観的であることから,客観的で合理的なものをもとめる現代社会において邪魔者として扱われた。なぜなら,ものの世界は数量のみで還元されるととらえてきたからである。そして,「科学の知」が重視され,世界は知ることで支配できるとして,知性・理性・概念・論理といった能力を高める科学的経験が行われる教科を近代の教育は基礎教科としてきた。
4 見直される芸術的経験=「芸術の知」
 しかし,1960年から1980年において思考・認識・価値等についての支配的な理念の枠組みの転換がなされた。それまで,科学主義における客観的世界の真実を人々は信じていたが,客観的世界は見る者によって異なることが支配的になってきた。そして,「延長されるもの」と「思惟するもの」とは分離できないものとして不可分な関係があると認められた。そうして,科学的認識を重視してきた客観的世界は崩壊してきた。よって,人間の認識に於いて観察者の感性・イメージ・直感・感情といったを対象とし,身体・色等で表現する(芸術的経験が行われる)「芸術の知」の意識が重要視されるようになってきた。それは,私の研究する環境教育においても芸術的体験=芸術の知が重視されていることから明らかである。すなわち, 平成8年版環境白書において、「人は経済社会活動の主体として生きるだけではない。社会の中での役割から離れて自然とふれあい、様々な遊びを楽しむことを通じて、自然の理に気づき、あるいは精神や心の働きを通じて芸術の美を創りだし、倫理を自覚する力を持っている。持続可能な社会を構想し、実現していく力は、こうした人間の精神と心が健全に育まれるところから生まれるのではないだろうか。」と芸術的経験を環境保全に結びつけようとする環境政策が進展してきている。環境省が公害防止のための規制を行い、自然公園を管理するという限定的役割に留まっていた時代を考えると隔世の感がある。この背景には、環境問題の発生源が不特定化し、被害・加害という対立構図が崩れてきたこと、そのため不特定多数のあらゆる主体の環境配慮が求められ、環境教育政策が推進されてきたことがある。 そして、環境教育政策が、マニュアル化された環境改善行動の普及のみを目指すのではなく、環境に対する親しみの醸成や環境に配慮しようとする姿勢をも求めていることから、"豊かな精神活動"である"環境芸術=芸術的経験"が、環境政策に取り上げられてきたと思われる。また、白書では「アースワークを実践した作家たちには、いくつかの共通した背景が指摘されている。一点目は、画廊や美術館などの展示空間や商品としての作品という、従来の芸術をめぐる問題に対する批判である。また、アースワークを成立させているもう一つの動機として、環境汚染や都市化による人間の疎外、こうした現代文明に対する懐疑によって触発された、地球環境に対する意識の目覚めや、自然との共感への願望が指摘されている。すなわち、アースワークには、1960年代末から1970年代にかけて顕在化した、この大きな社会的あるいは思想的な動きの変化が投影されていると言えよう。」とアースワークが運動論的意味を持って登場したことを指摘している。つまり、アースワークを実践した作家たちには、「画廊や美術館などの展示空間や商品としての作品という、従来の芸術をめぐる問題に対する批判」と「環境汚染や都市化による人間の疎外、こうした現代文明に対する懐疑によって触発された、地域環境に対する意識の目覚めや、自然との共感への願望」が共通するという指摘である。芸術が社会経済状況や社会的通念・価値規範等と相互に連動している活動であるゆえに、"環境芸術"は自然と乖離する方向に肥大化した芸術界や現代文明を批判し、オルターナティブを模索するという時代動向と連動している。すなわち、"環境芸術"は、これまでの経済効率や技術の至上を見直し、環境配慮を優先する時代の文化的象徴といえる。よって,このように現代社会は直面する課題解決のために芸術的経験=「芸術の知」を見直したと言える。
5 教育界も見直す芸術的経験=「芸術の知」
 そして,教育界においても「思惟するもの」に関わる感性・イメージ・直感・感情の能力が重視されるようになってきた。すなわち,平成元年からの詰め込み教育からの転換をねらった新学力観の登場によって,学ぶ意欲や身の回りの生活に内在する課題をその鋭い感性・直感で見抜き,多面的にそれを分析し解決することを目指している。それは,環境教育に代表されるように,教育界が現代社会を生きる子ども達に,「科学の知」である数量として世界を捉え知識・技法だけでは,その複雑化した課題を解決できないと気づき
「関心・意欲・態度」といった情意面の能力を基礎とし,それに「思考力・表現力・判断力」を交えながら教科の「知識・技能」の習得が目指すようになったことからも明らかである。すなわち,教科の学習においても学習者の感性・イメージ・直感・感情等が体験の中で発揮・育まれる芸術的経験=「芸術の知」の能力が重視しされ,それと関わりの中で教科の学習も成立すると捉えられるようになった。
6 「芸術の知」と「科学の知」のバランスと「芸術教育」
 ゆえに「芸術の知」に関わる芸術的体験が学習の中で展開される芸術教育は,今後の教育において見直されなければならない教科であるはずである。だからこそ,100マス計算や暗唱・漢字の書き取りのみ繰り返しやることで読み・書き・計算に関わる基礎学力の伸ばそうとする今日の教育界において,その存在を問われる芸術教育は,現代社会がもとめる「芸術の知」関わる芸術的経験の必要性を教員がしっかり把握し,実践を積み重ねる必要があると考える。
 この「芸術の知」すなわち芸術的経験をなおざりにしてきたゆえに,現代社会の青少年の問題行動が出てきたと考えられる。例えば,現代の青少年には「他者を見下す視線」がある。それは,数々のナイフによる不幸な事件等に象徴される。他者の感情・痛みをイメージできないのである。このような問題行動は,人間の主体の側の感性・イメージ・直感・情緒・情熱といった「芸術の知」に関わる感情の世界が展開される芸術的経験を軽視してきた結果生まれたものと考えられる。これは,人間の能力を「科学の知」と「芸術の知」を対立的にとらえてきた結果といえる。ゆえに,これを改善するためには言語や科学的な教科の学習においても主体側の感性やイメージ・直感・感情といった「芸術の知」の能力を重視し,芸術的経験を取り入れた学習を展開する必要がある。すなわち,科学的認識においても感性やイメージを基礎にして言語・記号に置き換えられない感情的な側面や質的側面を伴わせながら思考するとき,想像性も活性化される。だからこそ,学習において「芸術の知」と「科学の知」のバランスを重視する必要がある。
この2つの知のバランスよく教科でさせるために芸術教育は重要である。ただ,「芸術の知」を育む場として芸術教育は中心教科と考えられるが,「芸術の知」は芸術教科のみならず他教科(保健体育・技術家庭・総合的な学習等)においても「科学の知」と関連づけてバランスよく学習体験を育成する必要がある。
 よって,教育課程編成においての科学の知と芸術の知が相互に関わり合って育まれるために,科学的認識に関わる科学的経験と芸術的認識に関わる芸術的経験をバランスよく組み合わせて編成すると共に,あらゆる教育活動においても「2つの知」の能力を開発し育成するために科学的経験と芸術的経験をバランスよく取り入れた活動を計画・実施すべきと考える。美術教育に関わる者として,以上のような「2つの知」のバランスを考慮した芸術的経験が展開される授業実践を開発・研究していきたい。

1)ジョン・デューイ「経験としての美術,デューイ=ミードの著作集」人間の科学者,  2003年,p34
2)同上,p434

この論は,鳴門教育大の西園先生の「芸術教育実践学の研究の必要性-認識論の視点からー」を参照にまとめています。芸術実践学の重要性がよくわかる論文です。一読を!
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by kazukunfamily | 2012-03-05 22:09 | 博士をめざす方へ

子どもと環境とアート教育の関わりを生かした図画工作科教育の実践的研究


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