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環境芸術,萌芽期の続き!

少し,ブログを休憩します。2月の博論のテストまで,
おわびといっては何ですが,環境芸術の萌芽期の続きを掲載しておきます。(でも,ボツ原稿ですが・・・。)

彼の作りだした環境芸術化の流れは,オプティカル・アート,サイデリック・アート,等に受け継がれた。 ただ,1960年代の段階で,環境的または環境芸術といっても,ローバート・ラウシェンバーグ,ジョン・ケージ,アラン・カプロー等が参加した,新しいテクノロジーを用いたパフォーマンスをエンジニアとのコラボレーションで行うアーティスト・グループ「E.A.T:Experiment in Art and Technology(芸術と技術の実験)」あたりまでは,その芸術が創り出される環境は都市的人工環境に属していることが多かった。
 これらのハプニングやイベント等の芸術動向は,1970年代に近づき,先に紹介した砂漠にチョークで1マイルも線を描くウォルター・デ・マリアや砂漠に巨大な穴を掘ったりするマイケル・ハウザーらのランド・アーティスト達が出現することによって,都市環境から大地の自然環境へと拡大していった。「生活(都市環境)と人間」から「自然と人間」のかかわりを意図するハプニングやイベントに拡散していった。

C パブリックアート(公共環境における芸術作品)に関連して
マーガレット・A・ロビネットは,古代において戸外彫刻を創り出す動機には,神々を褒め称え喜ばせ,また死者を記念しようとする象徴的なイメージを創造したいという欲求と,なんとかして自分自身を不滅のものにしたいと,不死性を手に入れたいとい欲求が合ったとする。そして,時を経て19世紀のヨーロッパの街路において,大理石やブロンズの英雄像が著しく増大した,これは当時の新たな愛国主義やナショナリズムが背景にあることと,青銅鋳造技術が少し前に完成されていたことが原因とされている。アメリカにおいても南北戦争の英雄達の肖像彫刻が州や連邦政府によって多数,公園等の公共空間に設置された。
 しかし,これらの英雄等を讃える肖像彫刻ではなく,今日,町中でよく見かける表現主義的な抽象的な芸術作品が美術館から荒野や公共の空間等へ拡がっていった先駆を三田村畯右は「未来派(未来主義)が美術館からの作品の解放と環境の彫刻を唱え,構成主義者たちが造形芸術の町中への解放を提唱して以来」として,その始まりを1910年から1920年ごろのヨーロッパにおいて起こった前衛的な美術の変革にあるとしている。
 アメリカに関して言えば,公共空間に彫刻や壁画の芸術作品を取り入れる国家主導の芸術文化政策は,大恐慌時の1935年にルーズベルト大統領によるニューディール政策の一環として財務省絵画・彫刻部と連邦事業促進局(WPA:Works Progress Administration)の連邦美術プロジェクト(FAP:Federal Art Project)等により美術作品だけで,壁画部門が公共施設に2566作品,彫刻部門が17744作品,絵画部門で18099枚の作品が制作された事例以来の伝統をもっている。
 しかし,終戦後から1950年代ごろまでは,国家や地域の公的な歴史や英雄を讃え,その記憶を残すことを目的とした記念碑や建築物の付加的装飾の役割を背負わされた作品が数多く作られた。しかし,1960年代に入ると米ソ冷戦期下,文化を通して国家的威信を対外的に示す外交政策と位置づけていたケネディ政権と,ケネディ暗殺後,その意思引き継いだジョンソン大統領によって行われた芸術政策により,都市空間に「パブリックアート」と呼ばれる,ピカソやI.ノグチ,A.ガルダーの抽象モダンな彫刻が設置されるようになった。この美術動向を促進したのは,1962年の連邦施設管理庁(GAS)による政府関連ビル・裁判所等の新築・改修総工費の1%(1972年に0.5%に改訂)を芸術作品の費用に充てることを規定した「連邦政府の新設建築における美術プログラム(Fine Arts in Federal Buildings Program」と1967年の全米芸術基金(NEA)により,美術館の壁の外で現代の最高の美術作品に一般の人々が接することができることを主旨とし,パブリックアート計画に補助金を支給することを規定した「公共空間アートプログラム(Art in Public Place Program)」(以後,「APPプログラム」)の2つの芸術政策だった。
 アメリカ,パブリックアート政策を研究している工藤安代は,以上の芸術振興の芸術政策に加え,当時,パブリックアートが全国の地方都市で注目された理由を,「都市再生」に関係して,1つには生活環境が悪化した市街地への対処であり,2つ目は民間セクターにより先導された都市計画の中で“都市再生のシンボル”となることが期待されていたからと分析している。さらに,彼女は抽象モダン彫刻が都市に増加した理由を以下のように考察している。
「モダン建築によって変質した都市空間への『埋め合わせ』が必要とされたという事実があるのも見逃せない,建築が高層化する中で足元の空間には樹木を植えることなくベンチなどのストリートファニチャーを配置することもないデザインはアメニティの低い無機質な空間を出現させていった。その空間に人間味を与えていくために,モダン抽象彫刻が配置される傾向が生まれ,都市環境を文化的に向上させていくことが期待された」。
初期のAPPプログラムで初めて補助金が交付されたミシガン州グランドラピッズ市でつくられた作品は,アレクサンダー・カルダーの「ラ・グランド・ヴィテス(La Grande vitesse)(1969)」だった。彼の作品に設置にNEAは4500ドルの補助金を出している。
 この作品が選ばれた理由として,その明るい色彩が均質な広場を活気づける効果があった点とユーモアな形が親しみやすかった点,さらに,彫刻がそれまでの伝統的な記念碑に古臭さがなく,非常にモダン的であった点にあったとされている。ガルダーの彫刻は,新しい時代の到来を暗示し,古い規範を塗り替える新時代のシンボルとして市民に捉えられ,今では「私のガルダー」の愛称と共に,公式の市のロゴとして,市のパンフレットやトラックに使われている。
初期のAPPの補助金の2番目にはシアトル市が制作依頼したI.ノグチの「黒い太陽」(1969年)があり,NEAから非常に高い評価を受けている。そして,これが1973年の同市における「アートのための1%」の条例化に至っていく。
 このガルダーやノグチの公共彫刻プロジェクトの成功は以後のアメリカ全土のパブリックアートの流れに影響を及ぼすことになる。ただ,初期のNEAによるパブリックアートはその背景に冷戦構造下のアメリカの文化的優位性とその達成を国際社会にアピールする文化的外交の役割と,高いレベルの芸術を国民が享受しそれにより精神的高揚を人々が味わい文化レベルの高い国家へ変容を促す啓蒙的役割を担っていた。それゆえ,NEAに選ばれた作家はすで高評価を得ていたメンバーであり,1960年代,すでに美術界では重要な位置づけにあったポップ・アートやランド・ワーク,環境芸術,パフォーマンス・アートなどの新しい美術動向は助成の対象となっていなかった。いいかえれば文化的リーダーを自負するワシントンにおる委員の美意識が全国にトップダウンで押しつけられていたといえる。
 ゆえに,1960年代にかけて公共空間に実際に設置された作品は,美術館やギャラリーのコレクションや作家の制作した模型をそのまま巨大化した物で,建築工事が完成の仕上げとして広場等の空間を埋めるために設置されたので「プランク・アート(Plunk Art)」と揶揄されていた。この揶揄には,パブリックアートが個人・社会の偉業をたたえる記念碑から脱却したが,公共空間を美術館の展示室と同じ,ただの空間と捉えており,その空間で生活している市民と作品との関連や場所に刻まれた歴史との関連が考慮されていないことへの非難がこめられていた。言うなれば,この年代の美術に馴染みのない一般市民にとっては,町中にある日突然,著名と言われる作家の巨大な理解できない芸術作品が出現していたことになる。ワシントンのNEAの美術専門家にとって一般市民は,美術を啓蒙していく,生徒のようにただ教えを受ける存在だったといえる。
 1960年代の状況を工藤は「市民社会の文化的特徴をという視点を持ち得ない,素朴で未熟な段階」と分析している。確かに,1960年代のバプリックアートは,ランドアートやハプニングが環境との関係性を重視する姿勢を擁していたのと違い,環境芸術化の視点から見れば,まだ,未熟な段階であったと思われる。ただ,1970年代以降,市民が物言わぬ受け身の存在から,公共空間にあるアートを積極的に評価する批評家の存在に変化するにつれて,その未熟性が変容してしていった。すなわち,NEAは市民からの要望を受け,1974年にはAPPプログラムにおいて「アート作品が場に適切である」ことを重視する方針を打ち出した。
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by kazukunfamily | 2010-01-26 20:36 | 博士をめざす方へ

さよう子どもアートスクールの報告

水害にあった醤油工場の樽が置いてある。
佐用の役場の裏にあるホールで,24日に佐用子どもアートスクールがありました。
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内容は,巨大飛び出す絵本作りです。
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その絵本の指導に,神戸(西宮)から,東山直美先生が来られていました。
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子ども達は,今まで話し合って考えた「佐用にかかる虹」という,シナリオに従い,
絵本の内容を考えていました。
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2月に集中的に絵を仕上げるそうで,あと1回は,お手伝いにいきたいなと思っています。
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by kazukunfamily | 2010-01-25 18:25 | 子どもと表現活動

170Aゲットしました。

娘の車,A170に決定しました。
今日現車を確認,サインしてきました。
娘を守ってくれる,車になることを願っております。
姫路のヤナセには,お世話になりっぱなしで,
家中がベンツになる日も近いような気がします。

本当にA170はお買い得な車だと思います。
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by kazukunfamily | 2010-01-23 19:02 | 趣味・宝

環境芸術,萌芽期

とりあえず,環境芸術関係はここまでです。
あとは,博論の審査が終わって,何か皆さんに見ていただける形にしたいとおもっています。

①環境芸術の発生と変遷
環境芸術の定義とそのねらいを見いだし,整理するするために,まず,環境芸術がいつごろ発生し,現代社会の様相に伴ってどのように,その制作場所,場の関係,制作方法等を変遷させていったのか年代順に追ってみたい。
 その発生年代としては,ジェイムズ・ワインズが「1970年代には今世紀で最もとっぴで実験的な多くの屋外芸術作品がつくられた。環境芸術運動には,それまでの芸術には見られなかったほど多様な解決や典拠やメディアが関係し,また視野がひろがった」5)と述べている1970年代を想定したい。そして,1960年代までを萌芽期,1970年代以降を展開期とし,以後は10年区切りで,その年代の環境芸術の動向を整理していく。
ア,萌芽期(~1960年代)
風景すなわち人々を取り巻く環境は、古代から現代の抽象表現まで芸術家に多様な主題を提供し、無数の解釈や表現法を引き出してきた。そして、1960年代以降の芸術家と風景の関係について岡林洋は「ここ数十年来,特に芸術家は,風景と-いや環境といった方がよいのかもしれないが-さらに多様な手段を通じてかかわりをもつようになってきている。もはや風景は,他の背景として用いられない。かれらはまた,風景を描くのではなく,環境に参加しようとしているのである」6)と,芸術家は描くのではなく,環境に参加することで作品をつくりだしており,環境との抜き差しならない関係が増大していると述べている。では,芸術家が環境に参加するように制作を始めたのはいつ頃であろうか。 
この環境芸術の萌芽に関わる考え方にはいくつかの異なるものがあると思われる。本論においては,2つの例を紹介する。
A ランド・アート(アース・ワーク)に関連して
 1例目は,環境芸術という用語から,ローバー・スミッソン,「渦巻き状の突堤(1970年)」やマイケル・ハイザー,「ダブル・ネガティブ(1969年)」等のランド・アート(別称,アース・ワーク)におけるモニュメンタルな土砂の移動を連想するというものである。この環境芸術とランド・アートの関連について,1993年発行「現代芸術事典」において南嶌宏は以下のように説明している。
「『環境芸術』として限定する場合,-略-モダニズムを限定させてきた,便宜的に仕組まれてきた美術館や画廊といった因習的な美術の場や画廊といった因習的な美術の場や,そこから限定される個々の根拠なき作品の形態やサイズを,人間が本来対峙すべき神や自然といったフィールドへと放ち,人間に内在する表現の可能性をもくろむ作品あるいは行為をさす」7)。
 南は環境芸術の作家として,ロバート・スミッソン,ワルター・デ・マリア,クリスト,リチャード・ロングを挙げている。ここで語られている環境芸術は,1960年代後半以降に,美術館・ギャラリーを出て,作品の新たな「場所」を発見し,大地,海などの自然・野外空間に展開されていったランド・アート(アース・ワーク)と考えられる8)。
ストーンヘンジやナスカの地上絵,さらにピラミッドなどは太古のランド・アートといえるものであるが、現代的な意味におけるランド・アートを構想した最初期の作家としてはイサム・ノグチが挙げられる。
 彼はすでに1933年の段階で、古墳や古代遺跡、日本庭園などから着想を得て、巨大なアースワークを設計して いた。1947には「Sculpture to Be」・・・という作品を発案している。しかし,実際には実現せずニューヨークに模型(1947年)が残されている。この作品では,盛り土で巨大な「顔」を描くというもので鼻の長さだけで1.6kmになる予定だった。これが実現していればノグチは、おそらく最初のランド・アート制作者になっていたと思われる。
 このノグチの巨大な作品は,その作品に宇宙から見ると文明生活を営む生物がかって地球に生存していた痕跡と示すはずだった。それは,現代文明のもろさ,はかなさとともに,第2次世界大戦中,日系アメリカ人として疎外されたことや,原子力兵器の開発への反発等からくる地球の未来に対する悲観的見方が背後に存在すると言われている。ノグチのように,ランド・アートに関わる作家達は,何かしら現代社会や地球環境,さらには当時の芸術界に対する不満や危機感,さらには願い(希望)を背景に,多様なアプローチで自然(大地)に働きかけて制作していたと思われる。
 このランド・アートは1960年代後半のアメリカの彫刻家たちによって、一つの美術動向、として短期間のうちに確立されたとされているが,最初に自然環境の中での作品が作られた先例について,ジフリ-・カストナーは「1955年にはハーバート・ベイヤーがコロラド州アスペンに『Earth Mound』を作っていた-略-デ・マリアは1961年にはすでに,都市の空い たスペースを活性化させるために,芸術作品を活用することを示唆していた」12)と1960年を前後に環境の中に入って行う作業計画や活動の萌芽が生まれ,1960年代を通じて,その表現方法が一つにまとまっていったとしている。カストナーが先例として紹介しているバウハウスで教鞭を執ったこともあるハーバート・ベイヤーの1955年作品「アース・マウンド」については,藤枝晃雄も「彼の仕事がランドスケープ・アーキテクチュアに属しているには明らかである。-略- 彼の仕事は積極的外部環境の形成としてのデザインであるといえる。それは『選ばれた自然』が精神性と結びついていくというより『与えられた自然』を造形化するものである」13)とランド・アートとの結びつきを指摘している。事実,1968年の最初の「アースワーク展」に彼のこの作品の写真が展示されている。このことから,彼の作品は,若い芸術家の励みになってたと思われる。
 与えられた自然を造形化する試みは,1967年にマイケル・ハイザーが疾走する車から飛ばされた土,風にまかれた顔料,モータサイクルを走らせ大地に溝を刻む活動を展開していた。そして,彼は1968年にデ・マリアがカルフォルニア州の砂漠において,チョークで1マイルの線を2本引く「Mile Long Drawing」を手がけた時は,その作業に加わっている。 同様にマイケル・ハイザーが同年にネバダ州の砂漠で制作した「Nine Nevada Depression(ネバダ,9つの穴)」では,ローバト・スミッソンとその妻ナンシーホルトが制作に加わってる。このように萌芽期のアメリカのアースワークでは,後の主要な作品を生み出す面々が,西部の砂漠において協力し合って制作活動を行い,その風景自体を素材として操作する芸術活動のあり方を交流,深化させていったと思われる。
彼らが仲間と共に砂漠の大地で試んでいたアースワークの流れを加速させたのは,1968年、ニューヨークのドゥワン・ギャラリー (Dwan Gallery) で開かれたグループ展 "Earthworks"と言われている。14人の作家で構成されたこの展覧会には,アメリカ人とともに,イギリスやオランダの作家達の作品も展示され,ランド・アートがヨーロッパにもグロバールな形等で展開されつつあったことを示している。
  この展覧会では,その多くが大きすぎ,すでに風化で消えたと思われる作品もあり,本体というより写真すなわち数多くのドキュメント15)が展示されていた。これは,画廊における展示販売という従来の慣行に異を唱え,作品が商品化され,人手に渡ることを拒絶する姿勢を示し,当時の消費主義に溺れた美術界を批判していた。
 また,これらの作品はイサム・ノグチがそうであったように,アメリカの環境の現状と未来に関して痛烈な悲観的メッセージを送っていたと思われる16)。この悲観的メッセージの背景についてブライアン・
ウォリスは以下のように当時の芸術家と政治活動や保護運動との関連を指摘する。
「この見方(悲観的)は,当時の政治的風潮と軌を一つにしている。当時は環境保護運動が急速に進み,政治活動,とりわけベトナム戦争反対への参加は,アーティストたちにとって事実上義務と目されていた。従来の意味においては何ら政治色は持たないものの,『Earthworks』展はアトリエや画廊といった空間的束縛からアートの概念を開放する意図を示した点において明らかに反体制だった。-略-この展示に参加したアーティストたちは,ぎこちないながらも,環境保護運動の先駆者達と手を組んで大地,そして,人と大 地との関係に目を向かせた」。
 ベトナム戦争への反戦運動,ブラック・パワーあるいはスチューデント・パワーに象徴される1960年代。従来の価値観が瓦解し,芸術家達も学生,市民,政治運動家達と同様に,社会状況そのものへの鋭い問題意識を持っていたと思われる。そして,それが当時の美術界に対しても鋭い問題意識となり,1950年代からのネオ・ダダ以降の従来の芸術の枠組みから脱出が最大限に進展していった結果,1960年代にはのオフ・ミュージアムの動向が都市で起こり,その後,制作の場が都市から砂漠等の自然環境へと拡散していった。そして,その場の持つ特殊性(資質,歴史,環境保全状況等)に沿うように作品を生成させるという手法で環境芸術が萌芽していったと考えられる。
 この制作の場を都市から自然環境へ芸術家を向かわせたものに,都市の環境における活動することの激しい消耗感,いわゆる疎外感があった。この件に関してロバート・スミッソンは以下のように述べている。
「われわれは,都市には大地がないような錯覚をいだく。それにまた,ニューヨークの美術界の枯渇し,消耗した雰囲気は,アース・ワーカー達を,もっと新鮮で根源的な状況の探究に駆り立てる」。
 こうした,芸術家達のエレクトロニクスの支配する人工環境である都市での生活や芸術活動の閉塞感・疎外感からの開放及び自然環境への渇望が,大地=地球という自然環境そのものを芸術作品にする環境芸術へと帰結したと思われる。
B ハプニング(ボディ・アート,パフォーマンス・アート)に関連して
 2つ目は,1959年にニューヨークのルーベン美術館で展覧会「6つのパートからなる18のハプニングス」において行った細かく仕切られた部屋で個別に違う出来事を演出し,観客に対してその出来事間の相互関係を考えさせる「ハプニング」を行ったアラン・カプローを環境芸術の始祖とするものである。それは,人体とそれを取り囲む環境を取り込んだ美術行為に見いだされた「環境ということ,つまり工業生産品やその廃品までも含むわれわれの環境と,そこに流れる行為と時間そのものが芸術である」21)という環境芸術化(現実と芸術の一体化)の方針を環境芸術の始まりと見る考え方である。2002年発行,『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』において,暮沢剛巳による以下のように環境芸術の解説の中で,アラン・カプローとの関係を述べている。 「室内外を問わず観客を取り巻く環境そのものを作品と見立てた芸術の総称。現代美術のコンテクストでは,50年代のグループ・ゼロの作品などにその先駆をうかがう場合もあるが,アラン・カプローを始祖とみなす場合が一般的」。
暮沢は,「観客を取り巻く環境を作品と見立てる」としているように観客と環境との関係性を重視し,環境そのものを作品または行為に見立てることを環境芸術成立の基盤としている。確かにアラン・カプローは,環境の定義を「見る者を取り囲み,光,音,色彩を含んだあらゆる素材からなる空間全体を満たす形式」24)と述べ,見る者を身体的に包み込み,あるいは見る者が,その中に参与できる空間,つまり環境の設定を作品制作の主眼としていた。そのため彼は,様々な視覚的手段が駆使したり,観客の参加を作品の契機として積極的に取り入れた。
 さらに,彼は,観客を包み込んだり,参与ができる空間=環境を創り出す理由を以下のように語っている。
「全てのものは平等であり,もはや芸術については何にも重要なものは存在しない。道路のゴミ,交通のライトなどがあるだけだ。しかし,それらを凝視してみよう。たとえば明らかに芸術的な才能などを持ち合わせていない人々を注目するだけでいい。そうしたおびただしい数のもの全てが,いやそれ以上の多くのものが,驚くべきものとなりうるのだ。それは事実だ。われわれは,おそらくこのように価値を発見していくのだろう・私が興味をもつのはこうしてできる限り可能性を拡げていくことである」。
 彼の日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の各地で地域環境の価値を再認識させようとする市民参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分があると思われる。さらに,彼は,芸術の可能性を拡げるために環境芸術化(現実と芸術の一体化)を図っていた。それは,単に建物に囲まれたスペースに大量の廃タイヤを詰め込み,足元の悪い空間を前進しなさいという意地の悪い観衆への指示からのみで構成される1961年の「Yard(中庭の環境)」(写真8)からも読み取れる。すなわち,彼は,街中に突如大量のゴミや異物を出現させ,一般人や観客を巻き込む「ハプニング」を通して、芸術と日常生活の分離状態を破り、芸術家と観客の間の境界線や、演じる者と見る者の間の区別をあいまいにしてしまい,廃物・観客・行為・時間という現実=環境そのものを芸術化しようとしていた。
  彼の芸術と日常生活や人々を巻き込み,作品の本質的な要にしようとする環境芸術化の考え方は,アース・ワークの作家達が,サイト・スペシフィック(場所の特殊性)を重視し,作品と作品が置かれた場所の両者を不可分となものと捉えていた思考と通じるものがあり,以後の環境芸術のみならずフルクサスやパフォーマンスに与えた影響の大きさも頷ける。また,日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,普段に何気なく接しいた環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の市民に地域環境の価値を再認識させる市民参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分がある。
 彼の作りだした環境芸術化の流れは,オプティカル・アート,サイデリック・アート,等に受け継がれた。
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by kazukunfamily | 2010-01-21 20:47 | 博士をめざす方へ

環境の芸術化

次にもう一つの方向,環境の芸術化から環境芸術の定義について考えたい。この方向性は,もともと芸術とは無縁である種々の環境を芸術作品にするものであり,オブジェやパフォーマンス、また後述するアースワーク(ランド・アート)などがこの方向に属する環境白書は述べている。
 そこで,まず,1960年代後半から1970年代のランドアートとハプニングの制作活動を中心に,「環境を芸術化」する美術の動向がうまれ,自然から都市環境までどのように拡大していったのか,芸術家達が制作の場とした環境別にアメリカとイギリスの作家の芸術活動を軸に考察していきたい。
ア,自然環境の芸術化
ストーンヘンジやナスカの地上絵,さらにピラミッドなどは太古のランド・アートといえるものであるが、現代的な意味におけるランド・アートを構想した最初期の作家としてはイサム・ノグチが挙げられている。彼はすでに1933年の段階で、古墳や古代遺跡、日本庭園などから着想を得て、巨大なアースワークを設計していた。1947には,「Sculpture to Be Seenfrom Mars (火星から見える彫刻)」という作品を発案している。しかし,実際には実現せずニューヨークに模型(1947年)が残されている。この作品では,盛り土で巨大な「顔」を描くというもので鼻の長さだけで1.6kmになる予定だった。これが実現していればノグチは、おそらく最初のランド・アート制作者になっていたと思われる。
 このノグチの巨大な作品は,その作品に宇宙から見ると文明生活を営む生物がかって地球に生存していた痕跡と示すはずだった。それは,現代文明のもろさ,はかなさとともに,第2次世界大戦中,日系アメリカ人として疎外されたことや,原子力兵器の開発への反発等からくる地球の未来に対する悲観的見方が背後に存在すると言われている。
ノグチのように,ランドアートに関わる作家達は,何かしら現代社会や地球環境,さらには当時の芸術界に対する不満や危機感,さらには願い(希望)を背景に,多様なアプローチで自然(大地)に働きかけて制作していたと思われる。ただ,アメリカとイギリスとは,自然環境と関わる歴史・文化観の違いからそのアプローチの仕方は異なっている。そこで,自然環境の芸術化については,アメリカのロバート・スミッソン,マイケル・ハイザーとイギリスのリチャード・ロングの1960年代後半から1970年代における制作活動を軸に考察していく。
aアメリカでの自然環境の芸術化
ランド・アートは1960年代後半のアメリカの彫刻家たちによって、一つの美術動向、として短期間のうちに確立される。最初に自然環境の中での先例としてジフリ-・カストナーは「1955年にはハーバート・ベイヤーがコロラド州アスペンに『Earth Mound』を作っていた-略-デ・マリアは1961年にはすでに,都市の空いたスペースを活性化させるために,芸術作品を活用することを示唆していた」51)と1960年を前後に環境の中に入って行う作業計画や活動の萌芽が生まれ,1960年代を通じて,その表現方法が一つにまとまっていったとしている。また,1955年当時のハーバート・ベイヤーの作品「芝の堤」等について藤枝晃雄も「彼の仕事がランドスケープ・アーキテクチュアに属しているには明らかである。-略- 彼の仕事は積極的外部環境の形成としてのデザインであるといえる。それは『選ばれた自然』が精神性と結びついていくというより『与えられた自然』を造形化するものである」52)とランド・アートとの結びつきを強調している。事実,1968年の最初の「アースワーク展」に彼の作品は展示されている。
 1967年には、マイケル・ハイザーは,疾走する車から飛ばされた土,風にまかれた顔料,モータサイクルを走らせ大地に溝を刻む等の試みを展開していた。
 そして,彼は1968年にデ・マリアがカルフォルニア州の砂漠において,チョークで1マイルの線を2本引く「Mile Long Drawing」を手がけた時は,その作業に加わっている。同年,マイケル・ハイザーが同年にネバダ州の砂漠で制作した「Nine Nevada Depression(ネバダ,9つの穴)」では,ローバト・スミッソンとその妻ナンシーホルトが制作に加わってる。このように萌芽期のアメリカのアースワークでは,後の主要な作品を生み出す面々が,西部の砂漠において協力し合って制作活動を行い,その風景自体を素材として操作する芸術活動のあり方を交流,深化させていったと思われる。
このアースワークの流れを加速させたのは,1968年、ニューヨークのドゥワン・ギャラリー (DwanGallery) で開かれたグループ展 "Earthworks"と言われている。14人の作家で構成されたこの展覧会には,アメリカ人とともに,イギリスやオランダの作家達の作品も展示され,ランド・アートがヨーロッパにもグロバールな形等 で展開されつつあったことを示している。
この展覧会では,その多くが大きすぎ,すでに風化で消えたと思われる作品もあり,本体というより写真すなわちドキュメント54)が展示された。これは,画廊における展示販売という従来の慣行に異を唱え,作品が商品化され,人手に渡ることを拒絶する姿勢を示し,当時の消費主義に溺れた美術界を批判していた。また,これらの作品は,イサム・ノグチがそうであったように,アメリカの環境の現状と未来に関して痛烈な悲観的メッセージを送っていたとされる。
 この悲観的メッセージの背景についてブライアン・ウォリスは以下のように当時の芸術家と政治的活動や環境保護運動との関連を指摘する。
「この見方(悲観的)は,当時の政治的風潮と軌を一つにしている。当時は環境保護運動が急速に進み,政治活動,とりわけベトナム戦争反対への参加は,アーティストたちにとって事実上義務と目されていた。従来の意味においては何ら政治色は持たないものの,『Earthworks』展は,アトリエや画廊といった空間的束縛からアートの概念を開放する意図を示した点において明らかに反体制だった。-略-この展示に参加したアーティストたちは,ぎこちないながらも,環境保護運動の先駆者達と手を組んで大地,そして,人と大地との関係に目を向かせた」。
 ベトナム戦争への反戦運動,ブラック・パワーあるいはスチューデント・パワーに象徴される1960年代は,従来の価値観が瓦解し,芸術家達も学生,市民,政治運動家達と同様に,社会状況そのものへの鋭い問題意識を持っていたと思われる。そして,それが現代美術へも鋭い問題意識となり,1950年代からのネオ・ダダ以降の従来の芸術の枠組みから脱出が最大限に進展していった結果,60年代には「芸術の環境化」の美術動向が都市で萌芽し,その後,都市から砂漠という自然環境へと拡散しながら,「場の特殊性を所与の条件とし、それに沿うように作品を生成させる」という手法で「環境の芸術化」が進行していたと考えられる。ゆえに,環境芸術の枠組みとして以下の条件が加わる。
○社会状況への問題意識から,政治活動や環境保護運動等との連動。
 都市から自然環境へ芸術家を向かわせたものに,都市の環境における活動することの激しい消耗感,いわゆる疎外感があると思われる。ロバート・スミッソンは都市に対して以下のように述べている。
「われわれは,都市には大地がないような錯覚をいだく。それにまた,ニューヨークの美術界の枯渇し,消耗した雰囲気は,アース・ワーカー達を,もっと新鮮で根源的な状況の探究に駆り立てる」。
 こうした,エレクトロニクスの支配する人工環境である都市での生活や芸術活動の閉塞感や疎外感からの開放及び自然環境の渇望が,大地=地球という自然環境そのものを芸術作品にする「環境の芸術化」へと帰結したと思われる。ゆえに,以下の条件が環境芸術を成立させる要素に加わる。
○閉塞感や疎外感を抱く都市での生活や芸術活動からの開放及び自然環境への渇望。
 ドゥワン・ギャラリーの“Earthworks展”をリードし,もっと新鮮で根源的な状況の探究の場を砂漠だけでなく,産業発展の源の資源を生み出すためその環境が壊滅的に破壊された場に求めたロバート・スミッソンは,“Earthworks展”の2年後の1970年に、ランド・アートの記念碑的作品とされる「Spiral Jetty(螺旋状の突堤)」をグレートソルト湖に完成させている。この作品は,石と土で作られた、長さ457m(1500フィート)幅4.57m(15フィート)の渦まき状をした「堤防」である。この作品は,その後のアースワークに大きな影響を及ぼした強い感化力をもった作品と言われ,彼の唱える「サイト(特定の場所におかれた作品)」の代表作でもある。
 「Spiral Jetty(螺旋形の桟橋)」の渦は全長500メールに及び,すべてユタ州の地勢から採取された6650トンの土が2台のダンプカーで湖面に運ばれ,大型フロントローダーによって巨大な渦が形作られた。ランド・アートの作家にとって,制作場所である「サイト」の選択は非常に重要な位置を占める。即ち,自然との調和の中で作品の制作を計画すべきである,敷地から最良の特質を引き出すことが,創り出される作品を豊かにすると意味にとされていた。それは「アートと場所(サイト)の間に生じた応答]とも説明でき,スミッソンのこの作品にとっても制作場所の荒廃した石油採掘跡地のもつ「場所の感覚」が,作品の形状に大きな影響を及ぼしていた。
突堤が持つ,内へ内へ巻き込む螺旋形態は,湖に面した地勢から読み取られたものでもある一方,別の意味も内包していた。一つは,水際を覆う岩塩結晶が持つ螺旋系であり,もう一つは,スミッソンが聞いた,ソルト・レイクが地下水脈で大海に通じ,湖の中心で巨大な渦巻が巻いているという言い伝えから,形づくられたと言われている。このようにスミッソンは,場所(サイト)の地勢や伝説及び歴史等を鋭く読み取り,重視し,それらを暗示する作品を制作を行っている。このランド・アートの作家達が,その土地もつ力(エントロピー)を重視する傾向について,ジェイムズ・ワインズは,以下のように説明している。
「アース・ワークの芸術家達は,宇宙や地球の関係性を讃える古代の文明や古代人の芸術観に共鳴し一致していた」と説明している。すなわち,古代の文化は人類の最終的な命運は宇宙の構造と地球の資源のバランスに存在し,芸術の唯一の役割は,これらの決定的な敬意を表すことである,ということを理解していたのである」。
 ゆえに,工業化とテクノロジーが進展し,経済的発展の名のもと都市内部や周辺から,住民の持っていた風景への感情等を破壊し続けてきた現代社会において,環境芸術家達は古代の人々と同様に儀礼的で神話的な感情を重視してきたと思われ,環境芸術を成立させる条件に以下のものが加わる。
○場所(サイト)の持つ,地勢や歴史,伝説を重視する。
さらに,ジェイムズ・ワインズは「エヴェブリーやカルナック,ナスカ,ナイル渓谷のように古代人に愛された遠隔地に似ていなくもない露天採鉱地帯に一連の土地再生による作品を造成したいと思っていた」62)と,スミッソンの制作意図に,芸術によって荒廃した土地を生き返らせ,その象徴的な内容を修復することを手助けする含まれていたことを指摘する。確かに,当時,このソルト・レイクのローゼル岬あたりは工場残骸と廃車が散乱し,タール堆積層から石油等がしみ出していたという。
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by kazukunfamily | 2010-01-19 18:05 | 博士をめざす方へ

芸術の環境化

③芸術の環境化
 三田村畯右は,環境芸術が美術館から荒野や公共の空間等へ拡がっていった先駆を,「未来派(未来主義)が美術館からの作品の解放と環境の彫刻を唱え,構成主義者たちが造形芸術の町中への解放を提唱して以来」として,その始まりを1910年から1920年ごろのヨーロッパにおいて起こった前衛的な美術の変革にあるとしている。
 その様なヨーロッパにおけるパブリックな空間への芸術の解放の萌芽を受けて,「従来美術館に展示し、ホールや劇場で上演されていた芸術を環境の中に解放し、環境の一環として位置付けようとする方向」という「芸術の環境化」の本格的な動きは1960年代のアメリカ社会で起こった市民権運動や女性解放運動,ベトナム反戦運動などそれまで社会構造を変革していこうする市民運動を背景にした芸術家による政治的批判活動から始まったとされる。すなわち,その芸術家をはじめ市民の批判の矛先が,一部の富豪の金銭で独占される古い体制の芸術業界や,その富で牛耳られる象徴としての美術館へ向かったことが,「環境の芸術化」を推し進めるきっかけになったと思われる。
 その芸術体制の権威の源である美術館を批判し,そこから解放されようとする芸術家達の取り組みの経緯をアメリカのパブリックアートを研究している工藤安代の「1960年における新たな芸術活動の台頭」における1960年代の美術動向の分析を参考に,以下のように整理した。
 ア,政治的意識を共有するアーティストグループが結成され,有名美術館をはじめ著名芸術組織に対する圧力団体に成長。アーティストの権利や美術館への鑑賞者へのサービスなどを中心課題としたロビー活動を展開。
 イ,彼らの抗議行動を受け,美術館はそのコレクションや展示内容,館の管理運営方法まで見直さざると得なくなった。「ニューヨーク現代美術館(MOMA)」は,その美術界への影響力と権威ゆえ,一番のターゲットとなった。
ウ,MOMAを支援する資金源である,美術館の理事や評議委員達がベトナム戦争や他国との紛争で莫大な利益を得ていたことが指摘された。そして,芸術家達は,このような資金源によって成り立つ現代美術館が政治腐敗そのものと批判する。
エ,発展途上国への搾取構造を基盤とする資本家達が支援する美術館システムの外で活動することが,芸術家にとって抗議表明する一つの道となった。
このようなアメリカの芸術家達の美術界に対する批判精神は,美術館のみならず,絵画表現にも及んでいった。工藤は,1960年代から70年代にかけて「絵画は死んだ」と言われたことの背景に,モダニズム芸術への行き詰まりを表した意味だけでなく,以下のような「絵画を描くこと」への批判があったことを指摘する。
「政治・社会的問題に関心を持つアーティストにとっては,『絵画を描くことは何かを失うこと』と等しい意味があった。それはすなわち,絵画という移動可能な“商品”をつくり,一部の富裕層のための享受物を提供するシステムに荷担することを意味した」。
工藤が指摘しているように,一部の資本家が支配する市場において美術作品を高級な商品にされてしまうことに対して,芸術家達は,絵画とは違う物として流通不可能な表現形態を模索していった。その模索の行為を当時の科学技術や情報メディアの著しい進歩が後押しする形でサポートした。その結果,大地に痕跡を残し,時と共に風化するという,制作過程や完成後の劣化を重視するため作品として売買や恒久的な維持管理が難しいランドアート(アース・ワーク)や身体的表現であるパフォーマンス,観客の直接参加によって表現者と観客との区別の解消を試みたハプニング等の多様な芸術表現が生まれ,世界各地に拡散していった。
 さらに,暮沢剛巳が「深遠な画面を皮肉な大衆的なイメージと変換し,秘境的なエリート主義を大衆文化へと開放したポップアート然り,純粋な視覚性の探究をリテアルな物質性へと還元したミニマリズム然り,この両者の基本的性格はともに,それ以前の支配的傾向であった抽象表現主義との対決を通じて形作られている」と,述べているように,1950年代の主流であったモダニズム芸術の抽象表現主義を乗り越えようとする意図も「芸術の環境化」にはあったと思われる。
その意図について,暮沢が「60年代とはまさに『芸術の自立性』の喪失が前景化した時代であった」と述べているように,50年代の芸術の自立性を求める抽象表現主義がもたらした閉塞感を,以前の基準ではとても「芸術」呼べない表現スタイルが,乗り越えようとしたと思われる。すなわち,ポップアートは美術館に大量生産・消費される家具,石けん,缶詰,漫画を,ミニマリズムは鉄鋼やゴムなどの工業製品を持ち込んだ。その後,さらにモダン・アートへの不満を持つ作家達は,新しく自由な空間を求めて美術館から去っていった。この当時の抽象表現主義と美術館の関係を工藤は以下のように分析している。
「アーティストらは,より自由な新天地を求めて,モダニズム芸術を展示するため最適である現代美術館と不可分の関係にある“ホワイト・キューブ”からの脱却を図るのである。“ホワイト・キューブ”とは,文字通り窓のない真っ白な四角い壁面空間であり,作品の作品の大きさや形に応じてその壁面を移動させることのできる無機質で均質な展示空間のことを示す。この『無特色,無限定』の空間こそが現代美術館の特徴であり,芸術の自律性を求める作品の展示に最適なものと考えられた」。 
当時,モダン美術の作品を展示する空間として,世界各地に現代美術館が建設されていた。それに対し60年代のアーティストたちは政治的・社会的な状況や商業主義の美術界への反発と,抽象表現主義を乗り越えるために,美術館外へ作品を開放,すなわち「芸術の環境化」を図っていたと思われる。
 この「芸術の環境化」の当時の拡がりについて暮沢は以下のように述べている。
「オフ・ミュージアムの傾向は,当初は都市空間の中で寄生的に展開されるものとして現れた。アラン・カプローらが試みた『イヴェント』,あるいはフルクサスによる諸活動などの具体例を挙げることができるだろうか。後に『パフォーマンス』と呼ばれることになる身体表現も,この時点では『ハプニング』と呼ばれ,むしろ非日常的な出来事の方が重視されていた。これらはいずれも,モダン・アートのもつ合理的な均衡に抗い,即興性を強調するために屋外へと場所を求めてた表現形態である。だが,当初はささやかな試みであったオフ・ミュージアムの傾向は,やがて『アース・ワーク』や『パブリック・アート』と呼ばれる大規模な表現形態を生み出すことになる」。
 暮沢が指摘するように,1960年代における「芸術の環境化」の美術動向は,当初はささやかな動きであったようだが,最終的にはランド・アートの作家達にも影響を及ぼしており,決して無関係ではなかった。『ランドアートと環境アート』の序文においてもジェフリー・カストナーが「風景の中で作品づくりを開始したアーティストたちは皆,この社会的うねりに多大の影響を受けたようだ。彼らは,美術館を離れて野外に出ることで,様々な場所や『有機的な」要素に変形させながらも,彫刻作品に 命を吹き込むことができること確信している点で一致している」と,当時のアースワークの作家達が「芸術の環境化」の動向に連動していたことを指摘している。
 さらに,『アースワークの地平』の著書,ジョン・バーズレイは,マイケル・ハイザーの1969年にアートの現状に対する以下の言葉を紹介している。
「自由な物々交換であるはずのアートが,まるで累積する経済構造の中で行き詰まったかのように一進一退しており,あらゆる美術館や画廊に,床もたわわに詰め込まれている。しかし,真の空間は他にある」37)。 
この言葉にもあるように,ランド・アートの作家であるマイケル・ハイザーも,当時の消費社会に浸りきり,商品化してしまったアートと,それを展示する美術館を真の空間とは認めていない。また,彼は,真の空間を「アーティストがその作品を置こうとしていた空間,まだ,汚れを知らず,平和に満ち,崇高でさえある空間」38)と述べ,その真の空間をアメリカ西部の砂漠の中に発見していた。
 また,ローバー・スミッソンも1960年代の始めには土や岩,草木などをアートギャラリーに持ち込み始め,「ノン・サイト」という名付けた作品を作っていた。これらの美術館で展示していた作品についてのスミッソンの考え方の変化を『デ・アーキテクチャ -脱建築としての建築』の著者,ジェイムズ・ワインズは以下のように述べている。
「これらの作品は,仮想の風景に関する記憶の断片であったが,それでもなお美術の陳列ケースに特有の期待に沿ったものであった。 やがてスミッソンはギャラリーや美術館を 『生きながらの墓場-真実のための口実となる凍結となる過去の思い出』と見なすようになり,合衆国西部やヨーロッパにおいて一連の大規模な地質学的および埋め立てによるアースワークを開始した」。
マイケル・ハイザーと同様に,スミッソンも美術館のホワイトキューブの空間を「生きながらの墓場」と批判し,そこから作品を開放し,制作場所を「サイト」=大地といった具体的な場所に求めている。よって,環境芸術の定義には,以下の要素が加わる。
  ○従来の商業主義・権威主義の芸術に対する批判。
  ○美術館(ホワイト・キューブの空間)からの芸術の解放。
 ただ,暮沢が指摘したように,美術館からの開放の動向は,その帰結点として「ランドアート」と「パブリックアート」とも荒涼とした自然や都市空間を作品に仕立ててしまうスケールの大きな試みに至った。では,1960年代,砂漠等の広大な自然環境へ展示空間を求めた「ランドアート(アース・ワーク)」と,場所は違えども同様に美術館の“ホワイト・キューブ”から都市の公共空間の中へ脱出した「パブリックアート」とは,どう違うのだろうか。
 この両者の違いについてジェイムズ・ワインズは「環境芸術は,混成的な生活と芸術の境界の打破と公の場所に打って出ようという決意に基づいていた。-略-環境芸術にとって最も重要なことは,地表,コミュニケーション,人体,建築などの要素を扱うことで,守備範囲を広げ,同時に屋外の環境との折り合う努力を試みていることである」と1960年代から1970年代に制作されたどんな建築物やパブリックアートよりも環境芸術が概念的に秀でていたとしている。さらに,彼は,環境芸術が屋外の環境との折り合う点で,秀でている理由を以下のように説明している。
「この動向(環境芸術)の残した最も重要な遺産は,人間の行動と心理を芸術における統合力と認めたことである。-略-因習的な展示空間がなくなると,芸術は屋外という文脈の限りない散漫さと向き合わざるを得ない。月並みなパブリックアートの場合,このことは常にプライベート・アートの形式主義的な工夫をより大きな規模に拡大すること意味していた。最良の環境芸術にとっては,それは自然な周辺環境や観衆の潜在的な傾向から存在すると思われるものに向けて介在物の兆候を差し挟むことにを意味してきた。環境的な作品が成功するかどうかは,原型を利用し観衆の無意識の反応を感じ取り,文化の糸口を吸収したり変化を予測したり,視覚的な現象を操作したり,民衆の心理を捉えることに対する芸術家の鋭敏さに関わっている」。
1960年代にかけて公共空間に実際に設置された作品は,美術館やギャラリーのコレクションや作家の制作した模型をそのまま巨大化した物で,建築工事が完成の仕上げとして広場等の空間を埋めるために設置されたので「プランク・アート(Plunk Art)」と揶揄されていたという。この揶揄には,パブリックアートが個人・社会の偉業をたたえる記念碑から脱却したが,公共空間を美術館のホワイト・キューブと同じ,ただの空間と捉えており,その空間で生活している市民と作品との関連や場所に刻まれた歴史との関連が考慮されていないことへの非難がこめられていた。確かに,都市の大手前通りには,数々の有名彫刻家の作品がまるで美術館のギャラリーの様にコレクションされている。
それに比べて,「環境的な作品の成功は,民衆の心理を捉えることに対する芸術家の鋭敏さに関わっている」とジェイムズ・ワインズが述べているように,作品や行為が周囲の人や場所・文化という環境に及ぼす反応を,まず,考慮し,それらとの折り合うことをより重視することが環境芸術とパブリック・アートとの違いと考えられる。よって,環境芸術の成立要素には以下の条件が加わる。
  ○人間の行動と心理を芸術における統合力と認め,重視する。
 この環境芸術の周辺環境や観衆と折り合おうする姿勢は,言い換えれば環境芸術が「サイト・スペシフィック」へと向かう主張をもっていたともいえる。ホワイトキューブという場が抽象表現主義等の作品を展示することで非-場所的なものとして抽象化されるのに対して,砂漠や都市空間で制作される環境芸術では,周辺環境や観衆の潜在的な傾向に依存し,それを活かすという,表現活動とそれが創り出される場と関係性を不可分なものとして捉えている。よって,表現活動が特定の場所に帰属する性質を持つことをパブリック・アート以上に重視していたのが環境芸術と言え,以下の成立要素が加わる。
  ○サイト・スペシフィック=表現活動が特定の場所に帰属する性質を持つ。
 土屋誠一はこのサイト・スペシフィックの思考には以下の2つの方向性があるとする。
「1つは、作品を設置することで場を読み替え、特殊な場を生成すること。もう1つは、場の特殊性を所与の条件とし、それに沿うように作品を生成させること」。
 この2つの方向性において,「作品を設置することで場を読み替え、特殊な場を生成すること」は,マイケル・ハイザーが「Dissipate(劣化):Nine Nevada Depessionsの8作目」でネバダの砂漠の干上がった湖底に木片を配置したり,ナンシーホルトが,「SunTunnel」でユタ州の砂漠にコンクリートのチューブを並べた作品等は,環境芸術と「芸術の環境化」との深い関連性を示しているとに思われる。
 一方,「場の特殊性を所与の条件とし、それに沿うように作品を生成させる」は後述の環境の芸術化に関わる方向性と思われる。
 よって,芸術の環境する環境芸術においては以下の成立要素が加わる。  
  ○作品を設置することで場を読み替え、特殊な場を生成すること
 このように,既成の商業化してしまった芸術界への反発を引き金に,1960年代後半には,表現活動と屋外の環境との関わりを重視して「芸術を環境化」する環境芸術が展開され始めたと考えられる。,環境白書には環境ビデオ(インテリア・ビデオ)、環境映像、環境演劇、インスタレイション、BGM、サウンド・インスタレイション、音響彫刻、インテリア・ミュージック等が挙げられている。
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by kazukunfamily | 2010-01-18 23:41 | 博士をめざす方へ

元気!元気,描く,佐用町の子ども達

今週の土曜日から,昨年に水害で大きな被害にあった。佐用町の子ども達が,天文台の記念行事に参加して,大きな絵を描き始めます。

内容は,
西はりま天文台公園が創立20周年目を記念した
オリジナルストーリーによる、オリジナル(飛び出す!?)巨大絵本の制作、
及び発表(5月9日が本番)。

参加者,小学校1年生から中学生、高校生まで、15人くらい。

日時:1月24日(日)10時~15時
場所:さよう文化情報センター(電話0790-82-3336)
※JR佐用駅前、徒歩3分
内容:飛び出す!巨大絵本をつくろう~その③~制作

近くの方,のぞいてみられては,いかが。
私も,お手伝いに行きます。
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by kazukunfamily | 2010-01-18 19:44 | アートと地域

環境芸術の方向性

②環境芸術の2つの方向性(芸術を縦軸にして)
1996年の環境白書は,現代の我々の生活において、芸術・文化は社会的に大きな比重を占め、不可欠の価値領域となって日常生活と関連する重要な意味と機能を帯びているとして,その役割や働きに注目している。そして,実例として「環境芸術」を以下のように紹介している。
「現代の芸術には、「環境芸術」と呼ばれる新しい試みが現われている。これは絵画や彫 刻のほか、音や光、さらには日常的な物体なども素材として、環境の中において芸術を 創ろうとする動きと言えよう」。
 この文に「絵画や彫刻のほか、音や光、さらには日常的な物体なども素材として」とあるように,環境芸術に彫刻や立体的なインスタレーションだけでなく,絵画も含めらている。ここでの絵画は風景としての環境を描き込んだ絵という意味だけではないように思われる。1967年の美術手帖の「現代美術用語」において,「すでにアクション・ペインティングは見る者も包み込んでしまう画面の巨大さ,行為そのものの強調の内に環境への志向性を含んでいたが,あくまでカンヴァス内でのかぎりでグローズアップされた行為がアッサンブラージュの日常的な現実性を媒介として現実の環境の中に解放されたのが,あるいは行為とてことして環境へ突破して行ったのがハプニングやイベントであり,したがってここでは行為の方により多くの重点が行われる」と環境の中で大地や壁といった物の上に,絵の具だけでなく,土や泥,草木の汁等で描くという行為をより重点においた絵画,及び,日常品等をアッサンブラージュする際に絵の具を用いる行為等をさしていると思われる。
 さらに,「光や音」というのは,光や色彩、時間や運動への関心から、煙や水、ネオンサイン等多様な素材を作品に取り込んでおこなわれたグループ・ゼロとの関連が連想できる。また,環境白書の解説においても「日常の物体なども素材として」としている点は,アラン・カプローのハプニングとの関連も見いだせる。
 このように環境白書では,特定のジャンルという括りで環境芸術を捉えず,環境に作家が参加する多様な表現の試み行われ,その活動が拡散している状況をこの一文で紹介している。ただ,その解説では環境と芸術の関係をもとに環境芸術の成立要素を以下のように説明している。
 ○環境の中において芸術を創ろうとする動き
 この要素は,環境芸術における環境と芸術との関係を捉えやすく,本論においても利用したい。環境白書ではさらに,環境と芸術の関係を以下の2つの方向で示している。
「一つは芸術の環境化であり、従来美術館に展示し、ホールや劇場で上演されていた芸術 を環境の中に解放し、環境の一環として位置付けようとする方向である。その先駆は彫 刻庭園や噴水造形、モビールなどに見られるが、代表的な例としては環境ビデオ(イン テリア・ビデオ)、環境映像、環境演劇、インスタレイション、BGM、サウンド・イン スタレーション、音響彫刻、インテリア・ミュージックなどが挙げられる。人間と環境 の間に安定した関係を生み出すために、その関係や他の条件を配慮して作られた芸術で ある。もう一つの方向は、環境の芸術化であり、もともと芸術とは無縁である種々の環 境を芸術たらしめるものである。オブジェやパフォーマンス、またアースワーク(ラン ド・アート)などがこの方向に属するとされる」。
 この環境白書が示す,「芸術の環境化」と「環境の芸術化」の2つの視点で,環境芸術を分析してみたい。また,白書では,代表的な例として「環境の芸術化」にアース・ワークを分類しているが,「芸術の環境化」とも何らかの関係があると思われる。その点も明らかにしたい。
 そこで,1960年代以降のランド・アート(アース・ワーク)の作家を中心に,その芸術活動を,この2つの視点で捉えることで,環境芸術の成立要素を整理するとともに,環境芸術の作家を分析する視点を見いだしたい。
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by kazukunfamily | 2010-01-17 22:14 | 博士をめざす方へ

娘の車はA170に決定?

娘の車選びに行ってきました。
とにかく安全,丈夫,運転しやすくて,燃費がいい。
ま,都合のいいこと!なのですが,まずは,安全性。
甥っ子が,ヤナセにつとめていて,そこで息子がミニを買ったつきあいで,
いろいろ,国産の車もみましたが,ベンツのA170にほぼ決定のもようです。
丈夫が一番ですね。親としては・・・。
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by kazukunfamily | 2010-01-17 22:08 | 趣味・宝

環境芸術って何?

博士論文のボツ原稿から,(本論文280ページですが,ボツ原稿は軽く1000枚はいっています。一枚1600字で),みなさんの何か参考になりそうな,文の紹介をしていきます。
本原稿は,まだ,博論テストが終わっていないので,それが終わってから少しずつ紹介しますね。

まずは,環境芸術について・・・。序論です。

1 持続可能な社会と環境芸術
 環境芸術学会の初代会長の伊藤隆道は環境芸術について「『環境芸術』とは?という質問に対して明解な答えは用意されていない。それは,この言葉に含まれるイメージが極めて多様で幅広く,人それぞれが,独自の異なった解釈や理論で実践と結びつけているからである」4)と答えている。確かに,環境芸術は,対象とする環境も多様であり,その環境への関わる意図や表現手法も多様である。それゆえ,これが環境芸術であると一言で表現することは難しい。
 しかしながら,各地のアート・トリエンナーレやビエンナーレ,さらには国民芸術祭において,農漁村から都市まで拡がる環境に能動的に働きかけた環境芸術が数多く制作されている現状からは,居住地域の持続可能性を高めるため,環境芸術への市民や芸術家及び行政からの期待は大きいと思われる。
本項は,持続可能な社会の構築において期待される環境芸術の社会的役割について論究する。そこでは,まず,環境芸術の定義を整理する。

(1)環境芸術とは
①環境芸術を問い直す
 環境芸術を関する2つの解説がある。これらは,同じ芸術活動を説明しながら,環境と芸術と関係性の解釈の違いから,その方向性を異にしている。この両者の違いに着目することで,本論における環境芸術を成立させる条件を見いだし,その概念を整理したい。
 一つは1993年発行「現代芸術事典」における南嶌宏の以下の解説である。
「『環境芸術』として限定する場合,-略-モダニズムを限定させてきた,便宜的に仕組まれてきた美術館や画廊といった因習的な美術の場や画廊といった因習的な美術の場や,そこから限定される個々の根拠なき作品の形態やサイズを,人間が本来対峙すべき神や自然といったフィールドへと放ち,人間に内在する表現の可能性をもくろむ作品あるいは行為をさす」。
 さらに,南は,環境芸術を成立させる条件を以下のように述べている。
「必然的に環境芸術は,設置される場との関係において,その作品巨大化する傾向にあるが,その実際的なスケールは本質的でなく,あくまでそのコンセプトの次元において精査されなければならず,いわゆるインスタレーションは環境芸術とはいえない」。
 南は,環境芸術が制作されたその背景にあるコンセプトを重視している。これは,ランドアートを生んだ1960年代のアメリカが,ベトナム戦争の泥沼化や環境問題の顕在化,人種や女性問題に対する市民運動の激化等の不安定な社会情勢への反発と厭世的な危機感を抱えていたことに,コンセプト(概念,全体をつらぬく視点・考え方)という形で芸術に社会との関係性を示すことが求められていたからと思われる。よって,屋内・野外を問わず,展示される場所にあわせて空間を組織し,展示期間が終われば解体されることを前提とする「1回性」を基盤とした立体に作品をさすインスタレーションを,南は,コンセプトが背景になければ環境芸術の範疇に入らないとしている。
 また,南は「国際的な環境破壊に対し,1992年,リオデジャネイロで開催された『第1回エコアート展』などのように,自然保護を訴えるキャンペーンとしての一連の動きも環境芸術と一線を画すべきである」としている。これは,芸術活動が政治活動や社会運動のツールになる,すなわち,副次的存在になることを危惧しているからと思われる。
 以上の南嶌宏の解説から環境芸術を成立させる要素をまとめると以下のようになる。
  ○環境に関係する作品,あるいは行為。
 ○作品を,自然等のフィールドへと放つ。
  ○設置される場所との関係において,そのコンセプトを重視。
  ○芸術作品・活動を政治・社会運動のツール化として利用しない。
 2つ目は,2002年発行,『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』における暮沢剛巳による以下の解説である。
「室内外を問わず観客を取り巻く環境そのものを作品と見立てた芸術の総称。現代美術のコンテクストでは,50年代のグループ・ゼロの作品などにその先駆をうかがう場合もあるが,アラン・カプローを始祖とみなす場合が一般的」。
「観客を取り巻く環境を作品と見立てる」としているように,暮沢は観客と環境との関係性を重視し,その環境を作品または行為に見立てることを環境芸術成立の基盤と見なしている。確かに始祖とされるアラン・カプローは,環境の定義を「見る者を取り囲み,光,音,色彩を含んだあらゆる素材からなる空間全体を満たす形式」と述べ,見る者を身体的に包み込み,あるいは見る者が,その中に参与できる空間,つまり環境の設定を作品制作の主眼としていたとされる。そのため彼は,様々な視覚的手段が駆使したり,観客の参加を作品の契機として積極的に取り入れた。さらに,彼は,観客を包み込んだり,参与ができる空間=環境を創り出す理由を以下のように語っている。
「全てのものは平等であり,もはや芸術については何にも重要なものは存在しない。道路のゴミ,交通のライトなどがあるだけだ。しかし,それらを凝視してみよう。たとえば明らかに芸術的な才能などを持ち合わせていない人々を注目するだけでいい。そうしたおびただしい数のもの全てが,いやそれ以上の多くのものが,驚くべきものとなりうるのだ。それは事実だ。われわれは,おそらくこのように価値を発見していくのだろう・私が興味をもつのはこうしてできる限り可能性を拡げていくことである」。
 彼の活動の目的は「生活と芸術の統合」と言われている。これは,一般人や観客を巻き込み、街中に突如大量のゴミや異物を出現させる「ハプニング」を通して、芸術と日常生活の分離状態を破り、芸術家と観客の間の境界線や、演じる者と見る者の間の区別をあいまいにしてしまうことを狙っていたとされる。彼の芸術と日常生活の分離状態を破る考え方は,アース・ワークの作家達が,サイト・スペシフィック(場所の特殊性)を重視し,作品と作品が置かれた場所の両者を不可分となものと捉えていた思考と通じるものがあり,以後の環境芸術のみならずフルクサスやパフォーマンスに与えた影響の大きさも頷ける。また,日常空間と観客の間に日常性や即興性、演劇性を取り入れた表現活動を介在させ,観客に,環境のもつ新たな価値を発見させる考え方は,今日の各地で地域環境の価値を再認識させとする参加型のアートプロジェクトのねらいと重なる部分がある。
 暮沢は,1959年に行った展覧会「6つのパートからなる18のハプニングス」において行った細かく仕切られた部屋で個別に違う出来事を演出し,観客に対してその出来事間の相互関係を考えさせるハプニングを例に,アラン・カプローが環境芸術をハプニング,すなわち様々な出来事の組み合わせと考えていたとする。
 この環境芸術の捉え方は,ホワイトキューブの美術館から自然環境を生かした芸術活動を想定する南の解説とは異なっている。さらに,暮沢は南の環境芸術の解釈とは異なる以下のような解説を加えている。
「カプローの解釈を緩く捉えるなら,インスタレーション全般を環境芸術として考えることもできるだろう。-略-アースワークと呼ばれる彼らの作品は,砂漠,湖沼,荒地などの自然を制作素材に見立てたものだが,大規模な工事を伴い,また肝心の作品を現地で見られないなどの難点があり,環境という言葉そのものとは親和性が高い反面,『観客を取り巻く環境を作品に見立てる』という環境芸術の意図に即した表現であるかどうかは,疑問の余地が残る」。
アラン・カプローが,ハプニングにおいて演者と観客の関係のみならず、演者の身体を取り巻く場所や空間などの「環境」を意識していたように,観客に身近な環境との関係性を意識させるインスタレーションは環境芸術と見なすこともできる。しかしながら,全てのインスタレーションを環境芸術とすることは、西洋の童話を日本の城の敷地に置くような場との関係性を無視した ようなパブリック・アートも環境芸術に加わることになる。そうなれば,教材として,鑑賞対象をどのような基準で選択すればよいか困ってしまう。インスタレーション=環境芸術という考え方は,環境芸術を広く捉えすぎのように思える。ただ,アラン・カプローの芸術活動を環境芸術の始祖として,環境芸術の成立要素に取り入れている以下の条件は,地域の環境を生かした芸術活動に市民の参画を意図している本論にとって重要なものと考える。
  ○観客を取り巻く環境を作品と見立てる。
 暮沢は,この視点からアースワークが環境芸術の意図に即しているかどうか疑問を投げかけている。また,「エコロジーの機運が台頭した1980年代には今度は環境芸術を都市環境のコンテクストで考えようとする傾向が生まれてきた。もっとも,そうした発想から生まれてきた仕事の多くはランドスケープ・デザインという側面が強いのでこれを純粋に美術のコンテクストで扱えるかどうか疑わしい」と都市の環境に関わる作品も,暮沢は環境芸術の範疇に入れて良いのか疑っている。確かに,人里離れた自然環境を破壊して作れた作品や都市において施工主の意図に従い,都市の表層的な景観の調整と見栄え・使い勝手という付加価値を重視した作品・建築物の全てを,周囲の環境と,コンセプトを持って関わってるので環境芸術とするならば,環境芸術の概念はさらに拡散する。しかし,その定義は市民にとって難解になり,それゆえ様々な曲解を生み,環境との作品の接点を見いだす評価基準を他者と共有することが,より一層,難しくなると思われる。
 エコロジーや社会の持続可能性と芸術との関係性が問われる今日,環境芸術が「よく分からないもの」,「環境と関われば何でも有りの芸術活動」とされ,その意味や価値が拡散し曖昧なまま,道具として使われるのであれば,芸術にとっても不幸であるし,それを行った作家,参画した市民,生徒にとっても活動への価値が見いだせず,ただの単発のイベントで終わってしまうと思われる。
 そこで,この南や暮沢の解説を手がかりに,環境芸術の現代社会における位置づけを捉え直す必要があると思われる。そのために,ランド・アートの作家達を中心に1960年代から2000年代に行われてきた環境に能動的に関わる芸術活動が,どういった作為(コンセプト)や手法によって成り立っていたのか整理することで,持続可能性な社会における環境芸術の意義を見いだしたい。
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by kazukunfamily | 2010-01-16 21:02 | 博士をめざす方へ

子どもと環境とアート教育の関わりを生かした図画工作科教育の実践的研究


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