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クリストと環境とのコミットメント(関わり合い)

2)クリストと環境とのコミットメント(関わり合い)
クリストの作品に関わる人は、その作品の巨大さ故に素材メーカー、エンジニア、法律家を含めると国際的な規模になるはずである。また、作品の構築、管理、解体といった作業にも数十人から数百人が関わっている。主素材量と参加人数が分かっているプロジェクトを例に挙げると、
・1972年・・「谷間のカーテン」アメリカ・コロラド州
ナイロン18500㎡、スチールケーブル49500g
        32人の建設労働者と64人の臨時助手、美術校生、美術専門の移動労働者(28時間後解体)
・1978年・・「包まれた遊歩道」アメリカ・ミズリー州
全長4,5kmのナイロン布(12540㎡)
  布設置作業員84名、建設作業員14名、
        裁縫師4名、 (13日間設置) ・1985年・・「梱包されたポン・ヌフ、パリ」フランス・パリ
ポリアミド繊維の布40000㎡、ロープ1300m
     300人の専門の職人
 これだけの資材を用意し、スタッフを指揮するのは、想像を絶する綿密な計画と指導力を要するはずである。「囲まれた島々」では、さらに規模が大きく、430名の布地設置部隊が海上に島々にピンク色のポロプロピレン布557400㎡を拡げた。設置後も2週間の間、120名の監視部隊が 日夜、ゴムボートで点検を続けたという。 作る人だけではない。作品を一目見ようと遠くからやってくる人、日常の風景の一部としてその作品に接している人、テレビなどのメディアを通して見る人を含めるとその数は膨大なものとなる。
 では、なぜ彼の作品は人と人との関わりを生むのであろう。
 その理由は、彼の作品が見る人に理解するための余裕をしっかり取っている点である。その作品は、生活道路を横切り、見慣れた街の橋・ビル・像や遊び場である海岸を包み込んだりと日常生活の身近な場所にある日忽然と出現する。そして、入場料は無料で、作品の見方や触れ方は、危険のない限りいっさい自由なのである。夜明け前だろうが、日没後であろうと、どこから見てもよいのである。
 また、作品の解説等はいっさい配布や展示はされていない。では、誰がそれをおこなっているのかといえば、その設置に参加した人々である。例えば、「囲まれた島々」では、地元の美術学校の生徒がクリストのプロジェクトを手伝いに来ている。初め生徒たちはクリストのことを全く知らないが、何週間か手伝い、クリスト本人やスタッフと関わり合い、話し合い、活動する中で、彼らはクリストがプロジェクトを通して何を目指しているのかをリアルに学んでゆく。そして、その子どもたちやスタッフが、作品を見に来る人に熱心に説明しているのである。すなわち、彼らはクリストの作品と一体化しているのである。
 クリストは、プロジェクトのプロセスも作品の一部だと述べているが、彼の作品に関わった人々もクリスト芸術の一部なのである。
 彼の作品は人の心を引きつけ芸術の中に取り込む魅力を持っている。そして、人目を引きつける巨大さと華やかさとは裏腹に、どこか、不思議に控えめでもの静かに全てを受け入れている優しさが存在している。なぜなら、クリストのプロジェクトは周囲の人々の協力なしには存在し得ないのである。他の公共芸術が威圧的にそこに存在するのとは異なり、彼の作品は、周囲の理解と許可を必要とするのである。よって、クリストは、それを求めるべく、直接関わったり、メディアを積極的に利用するかたちで、何百万人という人々を作品を通して包合してゆこうとしているのである。そして、さらに大規模なプロジェクトを展開する足がかりにしようとしているのではないかと考える。
 クリストは、自らと人間環境のコミットメント(関わり合い)を芸術の世界に取り込んだ独創的な芸術家であるといえる。
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by kazukunfamily | 2012-05-31 20:36 | 博士をめざす方へ

(1)クリストと人間環境のインヴォルヴメント(巻き込み)

「囲まれた島」のインスタレーションは、1985年5月7日に完成している。アメリカのフロリダ州大マイアミ市、ビスケーヌ湾の11の島々が、総面積650万平方フィートのピンク色のポリプロピレンの織物によって、その周囲の200フィートを覆われた。 これだけ巨大な作品である。クリストは次の各政府機関から許可を得ている。
・フロリダ州知事・議会 ・デイト郡委員会
・環境規制省        ・マイアミ市委員会
 ・北マイアミ市       ・マイアミ海岸村
 ・連邦陸軍工兵隊      ・デイト郡環境資源管理局
 環境関係の機関への許可が多いのが分かる。そして、その許可には、海中及び陸上のいかなる生物の活動をも脅かさず、いかなる悪影響をも及ぼさないという条件が課せられた。 
 それを予想して、1981年からクリストは、海洋生物学者、鳥類学者、ほ乳類研究家らの学者ともに、できるだけ生態系を壊さないために、覆う島は全て人工の島を選び、そこにどれだけの生物が生息してしているか、その島を覆うことによって自然の生態系の連鎖がどのくらい狂うかを非常に注意深く調査した。
 しかし、彼は自然保護運動の人たちにより訴えられ、プロジェクトは裁判と平行して行われ世間の目を芸術と環境問題との関わりに注目させた。
なぜ、クリストの作品は困難がつきまとうのであろう。その一つはその巨大さ故なのだが、その設置場所に問題がある。他のアースワーカーと異なり、クリストのプロジェクトの創作の場は、人気のない荒野や砂漠や森の中に限られておらず、そのほとんどが建物に密集した都市や住宅地など、現実に何らかの目的に使用されている土地に置かれている。その幾つかの例をそこでの設置許可に付けられた条件とともに挙げると、
1972年・・「ヴァレーカーテン」アメリカ・コロラド州
ハイウエイ325号の通行に支障をきたさない。
1976年・・「ランニングフェンス」 
              アメリカ・ソマノ及びマリン郡
牧場等・海岸等の環境や住民の日常生活にいかなる悪影響を及ぼさない
1978年・・「包まれた遊歩道」アメリカ・ミズリー州
公園内の通常の使用、通勤、レンジャー活動や敷地内の樹木等の環境等への完全な保証
1985年・・「梱包されたポン・ヌフ、パリ」フランス・パリ
橋の上を通行する人・車、セーヌ川を運航する船へのいっさいの妨害なしでの工事完成、展示。
1991年・・「アンブレラ」アメリカ・日本
道路通行への妨害禁止、田圃等における自然及び生産等の環境への配慮
クリストは、これらのプロジェクトにおける課題点を一つ一つクリアして完成にこぎつけているのである。言い換えれば、クリストのプロジェクトには、それらを進める上で障害になる人間社会の構造が必ず組み込まれており、ゆえに彼は、決して人里はなれたところでやろうとはせず、人間社会との接触による軋轢を作品の重要な要素にしているのである。*9    だから、クリストは、綿密な計画書・環境調査書を持ち、多くの公共機関・住民に、彼の作品がどれほどの美的価値があり、興味あるものなのかを説得して回らなければならない。クリストのすごいところは、この説得や許可申請に数年かかろうとも、決して作品の構想を変えてしまうことはないところである。
 その勇気と度量にあふれ、自らの芸術のために敢えて困難に立ち向かっている姿には感服せざるを得ないのであるが、クリストは、なぜ多くの社会機関・個人を、環境問題等の解決困難な人と人、人と自然が接することで生まれるトラブルの渦の中に巻き込んでゆくのであろうか。
何キロもわたって湾の島を布で覆ってしまえば、それが環境に問題があるかどうか公共の場や個人同士で議論が起こり、訴訟まで起こってしまう。しかし、そこでの議論は、ふだんあって当たり前と思っていた湾の小さな島の環境について、人々の関心を高め、身近な生態系に関わる自らの存在を認識させる。また、公共の機関の身近な自然(いのち)・住民の安全性に関する対応も、地域住民にとって再確認できる。
クリストは、プロジェクトに多くの人を巻き込むことによって、人間環境に存在する「いのちをまもろう・手を携えて」のような素晴らしいものから、「エコロジーよりエコノミー優先・役所管理主義」等のマイナス面までの全てを、人々の前にさらけ出そうとしているのではないだろうか。だから、クリストの巨大プロジェクトは公共の金によるものではなく、何百万ドルの費用がかかろうと、自らのドローイング、習作、コラージュ、スケールモデル等の作品を売って捻出され、あくまで規模がいくら大きくても個人的な作品であるという、スタンスを大切にしているのである。 
 また、クリストの作品紹介には「はたしてこれが芸術といってよいのか」という疑問と議論がついてくる。従来、芸術とは美術館等の建物や敷地内に永久保存の形であった。しかし、彼の作品は、多額の費用と何年も準備をかけながら、短くて数時間、長くても数週間しかこの世に存在しない。でも、それは、日々の日常の中に存在し、あらゆる種類の人々の目の見えるところにある。そして、時間が経つにつれて、作品たちは都市や自然の景観の中にとけ込んでしまう。
 クリストは、高尚で特権的な芸術の世界を崩壊させ、芸術を身近な人間が生きるナマの環境に引き寄せようとしてるのではないだろうか。そして、多くの見る者に「これが芸術?」と疑問を持たせることで*10「見てみよう、触れて確かめてみよう」というコミットメントへの意欲を高めようとしているのかもしれない。
 巨大で、みんなに注目されるものを莫大な金をかけて作るだけならば、クリストの作品は人々の記憶の中に生き続けることはないだろう。彼は、プロジェクトのプロセスの中で巻き込んだ人々に環境問題や政治的な問題、現代芸術ついての定義の問題等について考えさせたり、あるいは発言させたりすることによって、人間と社会生活環境との関係を見つめ直させ、その記憶の中に存在し続けているのである。クリストは芸術を生み出すにあたって、人間社会全体をそこに巻き込むという斬新な方法をあみだした*11非常にスケールの大きな作家であるといえる。
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by kazukunfamily | 2012-05-30 01:13 | 博士をめざす方へ

クリストの創造への想いと人間環境

1,クリストの巨大芸術と人間環境との接点。
クリストの巨大プロジェクトに1976年の「ランニングフェンス」という作品がある。これはサンフランシスコ北部に作られた高さ18フィート(約5.8メートル)長さ24.5マイル(約40 キロ)にも及ぶもので、その端は大西洋に沈みこんでゆく。
 このフェンスには、厚手のナイロン布が16万5千ヤード、2050本のスチールのポールとそれを固定する1万4千個のアンカーやケーブルが使用されている。なぜ、これほどの巨大な作品をクリストは作ろうとしたのか。一人では絶対できず、また、巨大故の様々な問題が起きているはずである。
 この作品だけでもクリストは、59人の牧場主と話し合い、18界の公聴会、裁判所での3回の公判、450ページに及ぶ「環境への影響に関する報告書」の作成、そして、陸海空の使用の許可のとりつけ等で42ヶ月の手間を要している。 また、制作においても、環境や人々の生活に影響を及ばさないように作品は、コンクリートなどで固定されず地面に埋め込まれてワイヤーで固定するという大変手間のかかる仕事がなされている。さらに、たった14日間の展示後、跡形もなく撤去され、素材の布は全て牧場主にプレゼントされているのである。
これだけ巨大で莫大な費用と手間のかかる作品を制作しても、残ったのは記録用の映像等だけなのである。クリストは「私の芸術は、プロジェク トのプロセス全体が作品である」と述べている。
 確かに、この作品のプロセスでも多くの問題が起き、作品について人々の中に裁判が起こるほど論議が高まり、環境調査の報告書まで作られた。 また、延べ数万人の人々がその制作を手伝い、作りながらクリストの制作意図等について多くの議論をかわしたはずである。
 クリストの作品は、彼自身がプロジェクトで地域に関わることで、そっとしておいたら何も起こらない蜂の巣をわざとつつき、多くの人をそのプロセスに巻き込んでいるようである。このあたりに彼の巨大な作品づくりの目的が隠されているように思える。また、彼の作品と人間社会という環境との接点も見いだせそうである。
 そこで、この項においては、彼の1980年から83年にかけて制作された「囲まれた島々」のプロジェクトを中心に、
・クリストと環境のインヴォルヴメント(巻き込む)
・クリストと環境とのコミットメント(関わり合う)
という2つの視点で、巨大プロジェクトを見つめ直し、クリストと人間環境との接点を明らかにしてゆきたい。

つづく
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ゲートの時であったクリスト
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by kazukunfamily | 2012-05-29 00:25 | 博士をめざす方へ

ゴールズワージと人

大学への提出書類をどうしても5月中に仕上げたくて、どこにも行かず、ネットせずパソコンとにらめっこしていました。でもちょこまかしている様子はフェイスブックに掲載していますので、さがしてみてくださいね。
で、今日はゴールズワージと人です。

ゴールズワージが、選択し、自らが影響を受ける環境というのには、そこに住む人も含まれいる。彼は、日本での制作に対して、「大内村で多くの仕事をしたが、そこには人が住んでいた跡があっ たり、炭焼きの小屋が残っていた。人が住んでいたということは 重要なこと。北極やオーストラリアなどの原野の前人未踏の地で 働くことは例外的なことで、前人未踏の地はある意味でそのまま にしてほっておかれるものではないか。アートにとって重要な人 間の暮らしというものは、何百年の歴史を持っている。特にスコ ットランドの場合、人間が風景に含まれている。人間が風景に関 わってきたことを見せられるような場所で作ることに意味がある。」と述べている。すなわち、ゴールズワージが制作に選ぶ場所は「人と自然が関わってる場所」ということがいえる。
彼にとって自然もつ生から死へそして生という循環の持つエネルギーとともに、その場所に人が関わることによって生まれるエネルギーを感じ取ることが重要なのだろう。なぜなら、彼の住むスコットランドは、土地に秘められた多く伝説があり、それを民族の誇りとして、厳しいに自然に怯むことなく、その力に逆らわず根気強く寄り添い生きる人がいる。彼にとっては人そのものも自然環境の一部分なのかもしれない。
その彼が日本においても故郷の人々に繋がる自然と人との関わりを見出している。
「スコットランドで仕事に出かけると き、大内山を思うことがあります。 ・・ペンポイントが木や岩が大内山 の木や岩を思い出されるのかもしれ ませんが、私にとってはそれ以上のことなのです。それぞれの土 地で働く人々、自然にしっかりと根付いた暮らしのリズムを感じ ることが遠く離れた二つの場所と人々を結びつけるように思われる」
 彼にとって、制作の際に素材を得る自然のみならず、その自然とともに生きる村の人々の暮らしが彼の仕事の大きな支えとなっていたことが理解できる。彼は、人が自然と暮らしている場所にこだわることによって、「自然とともに生きる意味」を問いかけているのではないだろうか。
 この異国の自然に働きかけ、自然と共に生きることを探ることは、ゴールズワージにとって、故郷スコットランドの自然・生活を見つめ直すことに繋がるようである。
「自然、食べ物、ユーモア・・・それらすべてによって醸し出され る雰囲気の中で生活し、仕事をする。そうした経験を積むこと日 本に強く影響される。それが仕事にどのような影響を及ぼしてい るか説明するのは難しいが、直感的に日本の作品はここに故郷を 見出すように感じる」
 日本の自然と調和して、それを慈しんで生きる昔からの生活は彼の中で自らの地の伝統をみつめ、自然と共に生きるスコットランドの人々の生活に繋がり、より一層故郷の土地に秘めるエネルギーを鮮明に感じることができるのかもしれない。
また、ゴールズワージは、人が自然とともに生きる上でのよい面ばかりでなく、そのためにおこる様々な悲劇・破壊に対して目を背けてはいない。そのゴールズワージと環境破壊との接点を最も鮮明に浮かび上がらせた場所、それが足尾である。
この足尾は日本の公害被害の原点という所で、昭和30年代まで排ガスや流出する鉱毒の被害を受けてきた。そして、今なおその傷跡を深く抱える場所である。
 ゴールズワージは、この足尾の様子を見て、「病んでいる風景だ」とつぶやいたという。*29そして、この足尾の渡良瀬川の支流で制作を行っている。
彼は、ここで、「ウッド、ヘルドロック」という新しいタイプの作品を作っている。日本名「木に保持された岩」である。自然の大切さを訴えるのであれば、見た目に美しい作品を作ればことたりるが、彼は単なるロマン主義者ではなく、その現実から目を背けることなしに作品を作っている。ゴールズワージは、「日本の山で植物が岩を維持し山肌を守ってることを学んだ。」と述べている。この作品によって山と樹の関係、一見何気なく、だが実際にはきわめて緊張した関係を示しているのである。この関係を、ワージは足尾の荒れ果てた山肌から読みとったと考える。
 また、ワージはさらにもう一つの関係を読みとっている。それは、人が犯した環境破壊という過ちを、人が関わることで山を蘇らせていることである。ゴールズワージは、環境保全という人間の自然への働きかけが、自然の再生エネルギーを呼び起こしているに気づいたのではないかと考える。そして、人間が起こしてしまった環境破壊を人間が働きかけることによって自然の持つ命のサイクルを再生できると作品から語っている。それは富士における柿田川のトラスト運動であったり、山村の100年の森づくり運動においても、作家が人が関わる自然の「再生」を見出したのかもしれない。
ゴールズワージは、自然の素材の持つ魅力(エネルギー)を感じ取る素晴らしい力を持っており、それを自然のもつ「時=循環」の流れに逆らうことなく表現を通して探求している。そして、人として自ら自然に働きかけることで「自然との共生」の道を見出そうとしてるのかもしれない。
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by kazukunfamily | 2012-05-27 22:01 | 博士をめざす方へ

日本美術教育学会愛知大会での発表

8月の18日19日に名古屋の愛知芸術文化センターで日本美術教育学会愛知大会が開催されます。
ひさしぶりに学会発表をしようとおもいます。
内容は,
アートNOPによる国際交流壁画共同制作プロジェクトの教育的効果についての研究
です。
概要は
経済や社会・文化のグローバル化が進展し、異文化との共存や持続可能な社会の構築に向けて国際的な協働が求められるとともに、人材育成面の競争も国際的に高まっていることから、学校教育において国際理解教育を充実させることが重要な課題の一つとなっている。そして、国際理解教育の一つの手だてとして国際的な学校間の交流も注目されている。現在、公立学校が外国の学校と交流を図ろうとする場合、市や町の行政が提携している姉妹都市の学校との交流校に指定されるか、イギリスのブリティッシュ・カウンシルが行っている「学校間国際交流プロジェクト=ジョイント・カリキュラム・プロジェクト」等に参加し、実践的な英語力を高める手紙交流等の活動をする場合が考えられる。しかし、このような支援を受けて国際的な学校間交流を実践している学校はごく一部である。さらに、新学習指導要領において、総合的な時間が減少し、小学校に教科担任制が推進されている中では時間的・教育予算的に制約があり外国の交流校を学校単位で探すのは至難の業である。例え、見つかったとしても、海外校と交流実践の交渉ができる英語力を持った教員はごく少数である。
したがって、日本と海外の学校の間に立って教育実践のコーディネートしてくれる機関が必要となる。その役割を果たし、2011年からはその「アートマイル国際交流壁画共同制作プロジェクト International Intercultural Mural Exchange (IIME)」(以下「アートマイル」と表記)の活動が、文部科学省後援事業となったアートNPOに「ジャパンアートマイル:Japan Art Mile」(以下「JAM」と表記)がある。
 このアートNPOが推進する国際交流壁画共同制作プロジェクトは、従来の国際交流がメールや手紙等の文字や映像関連のメディアを活用した実践だったのに対して、壁画という実物を子ども達が地域学習や環境・平和学習等で見いだした地域課題をテーマに日本と海外学校が協働で作り出すところに特徴がある。しかし、言葉と文化・距離・時差の壁を乗り越え、インターネット等を活用して外国学校と共通のテーマで交流学習を行い、学習成果として1枚の壁画を共同制作するこのプロジェクトは、公立学校の児童・教師にとって難しい活動と思われる。そこで、JAMは、初めて参加する教師でも容易に取り組めるように、交流相手探し・交流手段(翻訳)・スケジュールの共有・輸送手段に関する様々なサポートを行い、子どもの目線を大切にした国際交流を可能にしている。今後、このようなアートNPOがコーディネーター役となり、海外のパートナー校を紹介したり、交流学習の授業カリキュラムモデルを提示したり、・相手と1対1で交流できる手だてを提供したり・情報交換のトラブルにも対応してくれることで、公立学校の外国学校との交流を容易にしてくれる思われる。
 そこで、アートマイルに2010年に参加し、カナダの小学校と壁画の共同制作をおこなった実践を例に、アートNOPによる外国学校との共同制作が国際理解教育と美術教育においてどのような教育的効果をもたらすのか明らかにする。そして、その考察を通して、表現活動を軸にした学校間の国際交流にあけるアートNPOの役割と今後の課題点を明らかにする。
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近くの方,聞きにきてくださいね。
友達の小崎(ザッキー)氏も,シンポジュウムにでますよ。楽しみです。
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by kazukunfamily | 2012-05-24 22:10 | 学会の活動紹介

ゴールズワージと水。(アンディ・ゴールズワージその2)

ゴールズワージと水。
ゴールズワージの制作の条件の中に海、湖、そしてそれに繋がる川、その源になる雪や氷が示されている。これらに共通する要素、それは水である。
実際に日本の制作においても、三重県においては大内村川から紀伊長島の伊勢の海へ。福井県では九頭竜川からダム湖へ、足尾においては、渡良瀬川からダム湖へ、さらに富士においては富士五湖にわき出す湧水と水という要素で繋がっている。
では、この水という要素はゴールズワージにどのような影響を与えているのだろうか。
①自然の素材についての新たな発見のきっかけとなる。
彼が日本の紅葉の色を理解しようとしている時に、水は大きく影響している。
「紅葉の葉に命を与えるのは水だとわかったので、滝の水を使った り、水に浸して色を浮かび上がらせようと試みました。そうした らその色の素晴らしかったこと。色あせた紅葉の葉を水に落とし た時の色の鮮やかさ、強烈さは、まるで魔法のようです。こうし て紅葉の葉と水の関係が理解できたのです。」
彼は水に葉を浸すことで本当の紅葉の赤を発見する。水は彼の自然の素材の持つ本当の姿を見出す媒体になっているのである。そして、自然の隠れた本質を理解する手助けになっている。
②作品に動きとはかなさを与える。
 彼の作品の中には滝口等の流れの中でその形を、水流の持つ渦等の形にそって変化してゆく作品がある。水は彼の作品に動きを与え、そして、新しく美しい形と動きを彼に見せる。まるで、自然の手によってかけた魔法のように。ただ、その形は数秒と持たない、はかない時を駆け抜ける。よってその美しさが強調される。
 また、土を水でねり石に付けそれが乾くことによりはがれてゆくことで自然の時の変化を見せる作品がある。この滝口の作品とは違うゆったりとした時の流れを演出しているのも土に含まれた水である。彼は、自然の水に作品をゆだね、自然を理解しようとしてる。
③水流が自然の持つ破壊的エネルギーをかいま見せる。
彼は、水により上流から運ばれ、そして割れてしまった石に着目して作品を作っている。森から生まれた水が集まりそれが堅い岩をも鋭く砕く力を持っている。水は、自然が穏やかな面だけでなく破壊的な面を持つことを作家にかいま見せる。
④自然の水の循環がいのちの循環のプロセスの表現に繋がる。
山の森等に降った雪、雨やそこで生まれた氷はやがて水流や湧水となり生き物や土・石・葉や枝とともに湖
や海にたどり着く。そしてそこで蒸発し雲となり山へと降り注ぐ。
水はこの自然界の循環のプロセスの主役であり、作家にその循環のプロセスをわかりやすく提示している。ゴールズワージは、それを雪のドローイングとして表現している。その作品では、土や血を混ぜた雪からとけた水が、まるで紙の上にできた起伏の上川のように流れていく。作家は、この作品で循環のプロセスを表現しているのである。それは、水あってのことである。
以上の様なことから、ゴールズワージにとって、自然の持つエネルギーや循環プロセス等を理解するための制作という形の探求活動において水というのは、様々な発見や表現への重要な要素だといえる。端的にいえば水がゴールズワージの探求活動を誘発しているといえる。
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(水の流れはアートをさそいますね。筆者撮影 )
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by kazukunfamily | 2012-05-22 20:47 | 博士をめざす方へ

ゴールズワージと自然環境との共感

ゴールズワージは、1956年イングランドのチェシー生まれで、リチャードロングやナッシュといった日本でも馴染みの深い自然派の第一世代を継ぐ、第2世代の旗手とみなされ、世界各地でも個展が開催されるなど注目を集めている作家である。       
 ゴールズワージは、自然の中に手以外、ほとんど道具も持たずに入り込み、木の葉や土、小石、茎、鳥のはね、雪などの自然の素材を使い、自らのいる場所や素材の持つ特性を生かしながら、自然界に一時的に新たな秩序を創造し、これを写真や紙にドローイングしたりして記録して発表する。彼の自然との対応を大切にした制作姿勢は、イギリスの自然に対する伝統的な愛着を脈々と受け継いでいるといわれる。
その彼が、1987年以来日本に数回来日し、三重県の大内山村・紀伊長島町、福井県和泉村、栃木県足尾町などで制作を行っている。また、1991年から1993年にかけては、日本とイギリスとの「2つの秋展」のためイギリスのスコットランド地方のベン・ネヴィス山と富士山麓において制作を行っている。その際、日本での制作に彼が出した条件は以下のようなものである。
「海辺と山で作業するにあたり、アンディと助手は寝室と仕事場が 必要。仕事場は明るく、少なくと14帖の大きさで、通うのに便 利であること。宿泊場所は仕事場があるところから1.6km以内。
 1)海岸地区:砂、小石、岩がある海岸で、高い崖がないことまたいきやすいこと。小川が海に流れ込んでいるところであれば理想的。
2)山林地区:針葉樹の植林地ではなく。また新木ではなく古木の森がある。高地では雪や氷の可能性があること。
この条件に示してあるように、ある場所に赴きある期間滞在して、そこの自然を徘徊しながら、その中で自然と関わりながら作品を制作する「アーティスト・イン・レジデンス」の作家である彼にとって制作の場である自然環境の特徴が、彼の作品を成立させる大変重要な要素であるといえる。よって彼は、日本での制作後に
「まず第一に、その土地が私の創るものを決定する。日本の自然に は深い影響を及ぼす特質が明らかに存在している。」
と述べている。
 この第1項においては、ゴールズワージが日本において創るものを決定し、制作を通して深く影響を受けた場所にはどのような特徴が見出されるのか、また、そこの自然から何を学ぼうとしたのかについて、日本での制作のために出した条件と制作場所の地理情報等を参考に考察してみたい。
(1)ゴールズワージと森  
ゴールズワージが日本で制作した場所(大内山村・紀伊長島町、福井県和泉村、栃木県足尾町・富士山麓)はすべて紅葉の美しい場所である。彼は森の条件として古木の森としている。
彼はそこで何を見出したのか。
「日本の紅葉を遠くから見ると素晴らしい、その美しい色に感動して近づくと、もうその色は消えてしまっているのです。それは蜃気楼のようにいつも遠くにあるのです。」
彼は、森で紅葉の葉の持つ魅力を感じ取り、紅葉の葉が自己主張の特異な存在ではなく、全体の中にあることでその存在価値が増幅していること、そして、それによって風景全体が調和していることを見出したのである。
さらに、楓の赤については、こうも述べている
「赤く紅葉した楓の木が山の中にポツンとある様は、まるで開いた 傷のようだ。このコントラストがエネルギーと力をもたらし、そ して、私は日本が赤という色の魂の故郷のように思える。」*15
 この古木の森という自然環境は、彼にとって、そのエネルギーと力を感じ取り、それを表現することで、その場を理解する要素が多く存在していると考える。すなわち、自然のエネルギーがあふれる場なのである。
では、古木の森のどのような要素が彼がその場を理解する条件になっているのであろうか。
①楓に象徴されるような色 鮮やかな多くの色が存在 する。またそれが季節に よって多様に変化してゆ く。それが美しいコント ラストを生む。
②様々な木が高さを変えて生きている。そのことにより多くの種類 の形が葉っぱ、枝、として存在する。その形の組み合わせが新し い形を生む。
③生きたにおいが存在する。それは、芽吹くにおい、腐葉土として 発酵するにおい、実を食べに来る動物のにおいなどである。それ は、古木の森のいろいろな生き物の繋がりを示す。
④生きた音がある。生き物の鳴き声、風による小枝がすれる音。すべての音が森が生きていることを示す。
⑤豊かな土がある。この土は多くの意味を持っている。葉が腐り次の世代に託す栄養を蓄えるものであり、森に降った雨を蓄えると ころでもある。ゴールズワージにとっても大切な接着剤である。
⑥豊かな水を生む。広葉樹林は、針葉樹林にくらべ豊かな水をつくる。この水があるからこそ彼の作品は豊かな展開をしているとい ってよい。
⑦様々な石が水の力により生まれ存在している。この石は、彼にとって葉などを張り付ける重要なベースとなるとともに、エネルギ ーの変化を感じ取る要素にもなっている。
⑧豊かで、気まぐれな光の変化が存在する。森は山にある。そこの気象変化は細やかである。しかしながら、降り注ぐ光の表情は豊 かで魅力的である.
古木の森は、時の移ろいにしたが
い、様々な形・色・音・光・におい等を生む、そしてそれらは時にしたがいはかなく、潔く去ってゆく。森は、生き物の時を積みかねた場所なのである。
ゴールズワージは、「私の芸術は、「時」という言葉ですべて表されるでしょう。と述べている。よって、森という生き物の時を積み重ねた場所に、自らの生きる時を制作という形で重ねて、「時」を中心とした作品を作りだしているといえる。
 森という場所は、様々な生き物の時を取り込み制作する作家が、自らも生き物の「時」の積み重ねによって生きているのだといことを発見できる、また、自然環境と「時」を通して一体化できる場所なのである。
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つづく
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by kazukunfamily | 2012-05-20 16:57 | 博士をめざす方へ

審美的共感と環境教育

この審美的共感と環境教育との関わりについて、精神医学者の神谷美恵子博士は、
「審美的感情というのは、何も色や形に関するモノばかりではなく、 もののバランスに対する感覚も含んでいるのではなかろうか。し たがって出会う人間社会の諸々の現象に対しても、あまりに度は ずれなものや、グロテスクなモノ、みにくいものに本能的に反発 をいだく根になるのではなかろうか。また、現実への過度の密着 をふせいでユーモア、滑稽、おかしみ、もののあわれなど、心の 旅に微妙な味わいを付け加えるのではなかろうか。」(「こころの旅」神谷恵美子 日本評論社 1974年 p51)

美の感情は人間の行為に深みを加える、それは自らが関わる対象が、美しいというだけでなく、「おかしいな、何かずれているぞ」と外面的だけでなく、対象の内面(心情)の醜さをも見抜いてしまう力を持っている。さらには、「これはおもしろい、楽しい、風流だ」というものを見抜いたり、自らがそれを行動にうつしたりできる原動力にもなりうる。子どもの豊かな審美的な感情に裏付けられた共感力は、美術、図工の時間だけで発揮されているのではなく、多くの環境(自然、文化、人)とふれあう日々の生活の中に微妙な味わいを加えてくれているのである。
さらに、この審美的な心と環境保護(エコロジー)の関係をイディスコップは次のように語っている。
「エコロジーは、審美的な知覚と洗練された思考の組み合わせを要求する」(「イマジネーションの生態学」イディス・コップ 思索社 1986年 p32)
環境保護への取り組みには、確かに環境における様々な被害を科学的に分析し解決する思考が必要である。しかしながら、一方からの視点からだけだと、エコロジー(生態系)と自分自身との関わりは把握できないのである。例えば、松食い虫を駆除しなけれないけないと、松のある山林に殺虫剤をまく、科学的には正しいかもしれないがそれにより、雑木林にいた昆虫は死んでしまい。それを餌にしていた鳥たちもいなくなる。それにより鳥や虫たちがいたことで、バランスがとれたいた林は弱ってゆく。これが、私の住む家の前で起こっている。山の松林は今全滅し、そして、もう虫は減少してしまった。これは、防虫剤が、山の生態系にどのような影響を及ぼすかの視点が欠如していたからである。
 審美的な心(共感)は、自分もその生態系の一部として広い視点で対象を美的(バランス・ユーモア感覚も含めて)に判断する。審美的共感(感情)に支えられて、知識(科学)を使うということが、よい手に科学をにぎるということではないかと考える。もし、科学的な権威だけでなく、自然全体を見渡すことができる美の権威が働いて防虫作業で行われていたならば、こんな林の現状はおこらなかったはずである。
殺虫剤をまく、科学的には正しいかもしれないがそれにより、雑木林にいた昆虫は死んでしまい。それを餌にしていた鳥たちもいなくなる。それにより鳥や虫たちがいたこと(松がれの林、弱る木々)
で、バランスがとれたいた林は弱ってゆく。これが、私の住む家の前で起こっている。山の松林は今全滅し、そして、もう虫は減少してしまった。これは、防虫剤が、山の生態系にどのような影響を及ぼすかの視点が欠如していたからである。
 審美的な心(共感)は、自分もその生態系の一部として広い視点で対象を美的(バランス・ユーモア感覚も含めて)に判断する。審美的共感(感情)に支えられて、知識(科学)を使うということが、よい手に科学をにぎるということではないかと考える。もし、科学的な権威だけでなく、自然全体を見渡すことができる美の権威が働いて防虫作業で行われていたならば、こんな林の現状はおこらなかったはずである。
(図審美感と環境との関わり1)
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審美的共感(感情)は人間のもの感じる(知覚も含めて)てなかでは重要な働きをしており、3才からくらいから芽生えたあと*14周りの環境(親・友達・文化・学校等)に触れ合い、その力を発揮しながらいろいろ学び育っていくのではないか。よって、ふれあったモノを、また、そのときの自分の行動を「美しさや快さ・畏敬・人情・いのちのいとおしさ等」の心に美的価値を感じる力で判断し、次なる行動への意欲を作っているのではないだろうか。そしてその行動は、身の回りのモノを愛する行動へとつながっていくと考える。
よって、審美感があるからこそ人は多くの身の回りの環境とかかわろうとするし、その関わりの中で感覚・感受性・感性が高められ、その上で心の美を感じるエネルギーである審美的な心が高まってゆくのではないか。よって、環境の中での自らの存在(位置)を感じ取り、よりよい環境をつくろうと行動する「エコロジーの実践」には審美的共感という心のエネルギーは不可欠であると考察する。
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このことをイディス・コップは、
「多くの人はそれとは知らずに詩人であるように、今はそれとは知 らずエコロジストなのであると言うことにしよう。詩的とエコロ ジカルであるこれら2つの表現は関係がないわけではない。」であると述べている。詩人とは彼女にとって審美的共感を備えた人であり、詩人だけでなく農夫・漁夫・工夫、探検家でも人は、大昔から自然と自らの精神との関係を表現するために、無意識に自然の動態を自らを含めた生態系として読みとって来たというのである。すなわち、人は自然等の環境を審美的に知覚し、それを個人に与えられたやり方で表現するという根源的な希求を持っているのという。よって、人の「創る」能力が、審美的共感心(美を感じる感情)と結びついたとき、「自然(環境)を愛する」ことがどういうことなのかを考えうるというのである。環境教育においても、子どもが自分自身を取りまくすべての環境事象に対して意欲的に関わり、それらに対する感じる心(感受性)を豊かにするために、造形教育で重要視し、子どもの心に育ててきた環境と関わり愛する美を見いだし働きかける心=審美的共感心を見つめ直し生かすようにすべきであると考える。
 子どもの審美的な感情や共感心を生かし育てる方向が、環境教育の根本的な改善の道を示しているように思える。
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by kazukunfamily | 2012-05-17 22:05 | 博士をめざす方へ

審美的共感と鑑賞活動

審美的な子どもの心の成長と鑑賞活動とは、かなり深いつながりがあると考えられる。それは、造形教育における鑑賞活動は、子どもたちが、進んでみたり、触れたり、感じたりすることで、そのよさや美しさなどを感じ取り、想像力を働かせながら見方や感じ方を深め、感性を高めることをねらいにしているからである。
この感性は「心に価値を感じる力」として、感覚や知覚によって生じたイメージ、それらに関わる感情などを包括した価値的概念であるとされているが、さらに、その価値の中で美的な価値を感じる力に高まれば審美的な心(共感)へとなってゆくと考える。
 よって、子どもは、日々の様々なモノやコトのやりとりの中で、見たり、そのものを手にしたりして鑑賞活動おこなっている、その鑑賞というかかわりを通して対象世界のよさ美しさを感じる「美の感情=審美的心」を発揮し、高めているのではないだろうか。
この「ものを見る・感じる活動」で高められた審美的な心の力が、表現にも生かされている。なぜなら子どもは、つくりながら見たり感じたりしながら表現を行っているからである。そこでは、表現過程の鑑賞が行われ、自分の作品に対するよさや美しさを見たりする審美感が働いていると思われるからである。
審美的共感力は、表現活動のみならず鑑賞活動においても渾然一体となって子どもの環境へ能動的に関わってゆく基盤になっている考える。
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by kazukunfamily | 2012-05-15 20:32 | 子どもと鑑賞活動

母の日は気合いをいれて

介護中の母には花を買いましたが,
妻にも花とラケットをかいました。
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大学院の息子とリンクしたプレゼントでした。
妻には息子メールが一番のプレゼントのようでした。

ところで宍粟市一宮には,スポニックパークがあり週末には泳ぎにきています。
テニスもできていいところですよ。剣道もここでしています。
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サツキがきれいですね。
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by kazukunfamily | 2012-05-13 15:35 | 趣味・宝

子どもと環境とアート教育の関わりを生かした図画工作科教育の実践的研究


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